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古賀穀堂
年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)
「佐賀藩教育改革、国家百年の計」
古賀穀堂の大学“始まり”物語
序章 朱子学の継承と江戸での覚醒
江戸時代後期、幕府泰平の世が内側から静かに変容を始めていた時代。1778年、肥前国佐賀藩に後に「寛政の三博士」の一人と称される当代随一の儒学者・古賀精里の長男として生まれます。古賀穀堂は、いわば朱子学の英才教育を宿命づけられていました。父が創立した佐賀藩校・弘道館は厳格な学問の気風に満ち、彼はその申し子として、学問の道を歩み始めます。
その運命が最初の転機を迎えたのは1797年。父が幕府からの招聘を受け、官立の最高学府である昌平坂学問所の教官に就任すると、20歳の古賀穀堂もその後を追って江戸へと遊学します。そこは全国から俊英が集う、日本の知の中心地でした。父はもちろん、柴野栗山や尾藤二洲といった当代最高の知性から直接指導を受ける中で、彼の視野は大きく開かれていきます。厳格な朱子学を骨格としながらも、その学問が現実の社会とどう結びつくべきか。書斎の中の学問から、国家や社会を動かす「経世済民」の学へ。江戸での経験は、一藩の儒学者に留まらない、より大きな視座を古賀穀堂の中に育んだのです。
第一章 藩政改革の設計図『学政管見』
1806年、江戸での学問を終えて佐賀へと帰藩した古賀穀堂は、29歳にして佐賀藩校・弘道館の教授に任じられます。しかし彼の胸の内には藩校教授としての務めを超えて、佐賀藩の未来に対する情熱がありました。佐賀藩主・鍋島斉直に対し、佐賀藩の教育行政についての意見書『学政管見』を提出します。これが、古賀穀堂の改革者としての生涯を方向付けるものとなり、また佐賀藩が他藩に先駆けて教育改革断行を実現するきっかけとなります。
その内容は、当時の常識を揺るがす、極めて大胆なものでした。「教育こそが藩政の根幹である」と喝破した古賀穀堂は、教育予算を3倍に増額すべきであると訴えました。さらに驚くべきは、朱子学を本分としながらも、儒学以外の学問、すなわち医学や蘭学といった「実学」の振興を強く提言したことでした。これは、江戸幕府の鎖国政策によって海外からの情報が限られていた時代において、驚くべき先見の明に他なりません。藩の存続と発展のためには、伝統的な学問だけでなく、現実に役立つ新しい知識が不可欠である。この『学政管見』に記された思想こそ、後に佐賀藩が日本の近代化をリードする、その揺るぎない思想的源流となったのです。
第二章 師弟の出会い、改革の両輪
古賀穀堂の人生において、そして佐賀藩の歴史において最も重要な出来事が起こります。1819年、佐賀藩の世継ぎである鍋島斉正、後の名君・鍋島直正の教育係(侍講)に任命されました。一人の思想家が、その理想を実現する最高の「実行者」を自らの手で育てるという、運命的な出会いとなります。古賀穀堂が若き君主に授けたのは、単なる知識ではありませんでした。為政者としていかに民を導き、国を治めるべきかという「帝王学」そのものでした。
1830年、鍋島直正が16歳の若さで藩主に就任。その師弟関係は、藩主と宰相という改革の両輪へと昇華します。鍋島直正は師である古賀穀堂を藩政の中枢である年寄相談役に抜擢。古賀穀堂は破綻寸前の藩財政と旧弊な気風に立ち向かう若き君主を支え、改革の具体的な指針として**『済急封事』を提出します。「人材の登用」や「倹約の奨励」に加えて、武勇のみを尊ぶ佐賀藩の旧来の気風、いわゆる『葉隠』崇拝を「藩士の三病」の元凶として痛烈に批判します。彼のこの厳しい指摘は、藩の精神風土そのものに改革を迫る、極めて困難な挑戦となります。
第三章 遺された思想と百年の継承
師弟による改革が軌道に乗り始めた矢先の1836年。古賀穀堂は病に倒れ、改革の半ばでその生涯を閉じます。享年59歳。藩主・鍋島直正は、師の死を「父子親の如し」と深く悼んだと言います。しかし、古賀穀堂の改革は、ここで終わりません。古賀穀堂の死後、その継承者となった鍋島直正は師の遺志を継ぐかのように、その改革をさらに加速させます。佐賀藩校・弘道館の教育予算はかつて古賀穀堂が提言した水準をさらに上回るまでに増額され、蘭学寮が設置されるなど実学教育が強力に推進されました。医学館(好生館)の設立、精錬方の設置と佐賀藩は日本有数の技術立藩へと変貌を遂げていきます。
古賀穀堂が確立した実学尊重と人材育成の教育理念は、佐賀藩校・弘道館を通じて大隈重信・副島種臣・江藤新平・大木喬任・佐野常民ほか、明治国家の近代化をあらゆる分野で牽引する巨人たちを育て上げました。「経世済民」の志は、一藩の改革に留まらず、国家百年の計の源流となったのです。