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高嶺秀夫
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年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)
「師範学校の父、近代教授法の礎」
高嶺秀夫の大学“始まり”物語
序章 鶴ヶ城の少年、敗戦の焦土に立つ
高嶺秀夫の物語は、ひとつの城の落城と共に始まります。1854年、会津藩士の長男として生を受けた彼は、藩校・日新館で頭角を現し、若くして藩主・松平容保の小姓に抜擢されるほどの俊才でした。その前途洋々たる未来が、戊辰戦争の砲火によって無残に断ち切られたのは、彼がまだ15歳の時のことでした。鶴ヶ城での籠城、そして降伏。故郷が焦土と化す光景を目の当たりにした少年の心に去来したのは、復讐の念ではなく、旧来の価値観ではもはや新しい時代を生き抜くことはできないという、痛切なまでの現実認識でした。
この敗戦こそが、高嶺秀夫の人生における最初の、そして最大の転換点となります。武士としての道が閉ざされた時、彼は学問の内にこそ日本の未来を再建する道があると確信したのです。謹慎が解かれるや、彼は旧藩の命を帯びて上京し、福澤諭吉が主宰する慶應義塾の門を叩きます。そこで高嶺秀夫は、西洋の実学思想に触れ、その知性の光に新しい時代の到来を予感しました。彼の卓越した才覚は福澤諭吉の目にも留まり、やがて国家の教育を担う官僚への道が、一人の会津の敗残兵の前に開かれることになったのです。
第一章 オスウィーゴーの光、教育の天命を知る
1875年、福澤諭吉の強い推薦を得て文部省に入省した高嶺秀夫に、国家からの最初の指令が下ります。それは、師範学校教育の調査を目的としたアメリカ合衆国への留学でした。盟友・伊沢修二らと共に太平洋を渡った彼が辿り着いたのは、ニューヨーク州にあるオスウィーゴー師範学校。この地での出会いが、彼の生涯を決定づけることになります。
当時のオスウィーゴーは、スイスの教育実践家ペスタロッチの思想を受け継ぎ、発展させた教育改革運動の中心地でした。高嶺秀夫は、その指導者であるエドワード・シェルドン校長の下で、それまでの日本には存在しなかった全く新しい教育の姿に遭遇します。それは、教師が一方的に知識を注入するのではなく、実物や対話を通して子ども自身の観察力や思考力を引き出し、その内なる知性を育んでいくという教育法でした。子どもは白紙ではなく、無限の可能性を秘めた種子である。教育の役割とは、その種子が自ら芽吹き、成長するための手助けをすることにある。この思想は、高嶺秀夫にとってまさに天啓でした。
高嶺秀夫は、この教育法を「開発主義」と名付け、その理論と実践方法のすべてを貪欲に吸収しました。それは、単なる一技術の習得ではありません。戊辰の焦土から立ち上がった彼が、日本の未来を託すべき、確固たる教育哲学を発見した瞬間に他なりませんでした。
第二章 師範学校の父、近代教授法の礎
1878年、熱い使命感を胸に帰国した高嶺秀夫は、盟友・伊沢修二と共に、アメリカで得た理想を日本の教育現場へ移植するという共通の使命に燃えていました。伊沢が音楽や体育といった新たな分野の開拓へと向かう一方、高嶺がその主戦場として選んだのは、日本の教員養成の総本山である東京師範学校でした。彼は教壇に立ち、自ら附属小学校の児童を相手に「開発教授」を実践してみせます。巧みな発問で子どもたちの好奇心を刺激し、彼らが自らの力で答えを発見する喜びに目を輝かせる。その光景は、知識の暗記に終始していた日本の教育界にとって、まさに革命的な出来事でした。
1881年、高嶺秀夫は若くして東京師範学校の校長に就任します。彼は、この「開発主義」を日本の教員養成のスタンダードとすべく、その体系化と普及に全霊を注ぎました。彼の指導の下、東京師範学校は近代的な教授法を研究・実践する中心地となり、そこから巣立った卒業生たちが、全国各地で「開発」の種を蒔いていきました。この功績により、高嶺秀夫はいつしか「師範学校の父」と称されるようになります。
奇しくもそれは、森有礼が初代文部大臣として国家主義的な教育改革を推し進めた時代と重なります。「国家の須要」に応える人材の育成が叫ばれる中で、高嶺秀夫が目指したのは、国家という大きな枠組みの前に、まず一人ひとりの子どもたちの持つ無限の可能性を信じ、それを最大限に引き出す教育でした。二つの潮流は、時に緊張関係にありながらも、結果として明治日本の近代教育という大きな川を形作っていったのです。
第三章 教育者の守護者、その無形の遺産
高嶺秀夫の後半生は、教育行政家として、その卓越した調整能力と高潔な人格を発揮した時代でした。1897年からは、女子高等師範学校の校長を12年という長きにわたり務め、当時はまだ「良妻賢母」の育成が主眼であった女子教育の世界に、知的探究の精神を吹き込みました。
彼の真骨頂が発揮されたのは、1898年の「美術学校騒動」でした。岡倉天心の罷免に端を発し、教授陣の総辞職という未曾有の危機に瀕した東京美術学校の校長に、高嶺秀夫は白羽の矢を立てられます。自身も浮世絵の収集家として美術に深い造詣を持っていた彼は、混乱の渦中へと単身乗り込み、対立する双方の意見に真摯に耳を傾け、粘り強く説得を重ねました。その公平無私な姿勢は、やがて固く閉ざされた人々の心を開き、学校の分裂という最悪の事態を回避させたのです。それは、彼が特定の思想や学閥に与しない、真の「教育の守護者」であったことの証左でした。
1910年、高嶺秀夫はその生涯に幕を閉じます。彼が遺したものは、その名を冠した大学や校舎ではありませんでした。彼が蒔いた「開発」という名の種は、目に見える形ではなく、教員養成という営みの中に、そして教師から子どもへと受け継がれる無形の遺産として、日本の教育の土壌に深く根付いているのです。筑波大学やお茶の水女子大学、そして東京藝術大学。それらの学府の源流を遡る時、私たちは、会津の焦土から立ち上がり、子どもたちの内に未来の光を見出し、その育成に生涯を捧げた一人の教育者の、静かだが確かな情熱に行き着くに違いありません。