緒方惟準
年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約3,000文字(読了目安:5-10分程度)
「適塾の仁術を継承、大阪大学医学部の源流」
緒方惟準の大学”始まり”物語
序章 適塾・緒方洪庵の嗣子
1843(天保14)年、大阪で蘭学塾・適塾を主宰する緒方洪庵と八重の次男として緒方惟準が生まれる。長男が夭折したため、彼は緒方家の嗣子として育てられた。適塾には連日、全国から向学心に燃える若者たちが押し寄せていた。彼は物心つく前から、日本の近代化を牽引する熱気の中で育ったのである。
しかし、偉大な父を持つがゆえの苦悩もあった。1854(嘉永7)年、12歳となった惟準は父の命により、弟と共に漢学を主とする塾で学ばされていた。だが、ペリー来航による黒船の衝撃が日本を揺るがす中、彼の心には「これからは蘭学の時代である」という強い思いが芽生えていた。彼は父の意向に反発し、弟と共に洋学館へと出奔する。この行動により一度は勘当されるものの、彼の洋学に対する執念は本物であった。のちに勘当を解かれた彼は、自らの意志で実学の道へと進んでいく。
第一章 長崎からオランダへ、最先端への挑戦
1858(安政5)年、16歳の惟準は長崎へと遊学する。当時、幕府は長崎海軍伝習所を設立、西洋の軍事や科学技術の導入を急いでいた。彼は長崎医学所でオランダ軍医ポンペらに師事、本場の西洋医学を貪欲に吸収していく。
時代はまさに激動の渦中にあった。1862(文久2)年、父・洪庵が幕府に請われて江戸の西洋医学所頭取に就任。しかしその翌年、父は突然喀血してこの世を去ってしまう。21歳の惟準は江戸に戻り、若くして医学所の教授を任じられることとなった。
父の後任として第3代頭取に就任した松本良順は、直ちに医学所の教育改革を断行する。彼は適塾式の輪読や討論を廃止、物理・化学・解剖から内科・外科に至る各科を体系的に講義する「ポンペ式」へと刷新したのである。「厳に他の書を読むことを禁じる」という強硬な改革は、適塾式の自由な学習に慣れていた学生たちとの激しい対立を生んだ。
一方、長崎で良順と同じくポンペからオランダ医学を学んでいた惟準は、幕府の命によりオランダへと留学する。ユトレヒト大学で最先端の医学を学ぶ日々。しかし、その留学生活も長くは続かない。1867(慶応3)年の大政奉還、そして戊辰戦争の勃発。幕府崩壊の報を受けた彼は、急遽帰国を余儀なくされたのである。
第二章 適塾の閉鎖と大阪での建学
1868(明治元)年、帰国した26歳の惟準を待っていたのは、全く新しい国家体制であった。彼は京都朝廷の命により新政府に出仕、東京に接収された医学所の取締を任される。
しかし、時代はオランダ医学にとって冬の時代を迎えつつあった。明治新政府の樹立に伴い、医学の主流はオランダ医学からイギリス、そしてドイツ医学へと急速に転換していく。この歴史的なうねりの中、かつて無数の俊才を輩出し、日本の医療近代化を牽引した大阪の適塾は、1868(明治元)年にひっそりとその歴史に幕を下ろした。父・洪庵が築き上げた蘭学の牙城の崩壊である。
だが、適塾の魂は消えていなかった。適塾の元塾生たちは、医療の灯を大阪に残すべく結集する。彼らの熱意は新政府の重鎮をも動かし、翌1869(明治2)年2月、大阪府知事・後藤象二郎と参与・小松清廉の尽力により、東高津村の大福寺に「浪華仮病院」および仮医学校(のちの大阪医学校、現在の大阪大学医学部の源流)が設立されることとなった。
この新しい大阪の医療拠点のトップとして、元塾生たちが強く請うたのが、他ならぬ洪庵の嗣子・惟準であった。東京で医学校や大病院の取締という国家の要職にあった27歳の惟準は、彼らの要請に応えて直ちに職を辞し、大阪への帰還を決断する。大阪の医学伝習御用掛として浪華仮病院の院長に就任した彼は、主席教授としてオランダ軍医ボードウィンを招致。一般患者の治療と新しい医師の育成に奔走する。
だが、国家の近代化は彼らに冷酷な試練を与える。1872(明治5)年に学制が公布されると、文部省は日本の医学教育を「ドイツ医学」に統一し、東京の第一大学区医学校へと一元化する方針を打ち出した。これにより、惟準らが心血を注いできた大阪の医学校は、突然の廃校へと追い込まれてしまう。国家の強力な中央集権化の波に呑まれた、無念の挫折であった。
第三章 仁術の魂の継承
1873(明治6)年、31歳の惟準は教育の現場を離れ、陸軍軍医として新たな道を歩み始める。大阪鎮台病院長や軍医学校長を歴任、近代的な陸軍軍医部の創設に尽力した。国家の軍事医療体制を支える泥臭い実務。彼はここでも、海外で培った西洋医学の知識を総動員して日本の近代化に貢献する。
1887(明治20)年、45歳で陸軍を退役した彼は、再び大阪の地へと戻る。緒方病院を開院、院長として地域医療の最前線に立ったのである。さらに翌1888(明治21)年、46歳の彼は同志と共に、生活困窮者のための「大阪慈恵病院」を開院する。
名声や地位に固執せず、貧しき者にも手を差し伸べる社会福祉への献身。それはかつて、父・洪庵が天然痘やコレラに苦しむ民衆を無償で救おうとした「仁術」の精神そのものであった。
1909(明治42)年、緒方惟準は67歳でこの世を去る。激動の時代の中で大阪の医療の灯を守り抜いた男。彼が守り、繋いだ命を救う実学の魂は、現代の大阪大学医学部の根底に、揺るぎない確固たる理念として今も静かに脈打っている。
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