慶應義塾大学
杉亨二
すぎこうじ
1828(文政11)年8月2日/9月10日 - 1917(大正6)年12月4日
1828(文政11)年8月2日/9月10日
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杉亨二、 肥前国長崎(現在の長崎県長崎市)に杉泰輔の長男として生まれる。
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杉亨二、 大村藩医・村田徹斎の書生に。
1848(弘化5/嘉永元)年
1849(嘉永2)年
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杉亨二(20-21歳)、 江戸に出て、江戸中津藩邸の「蘭学塾」で講師に。
1850(嘉永3)年頃
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佐久間象山、私塾「象山書院」に近い江戸中津藩邸より、多数の中津藩子弟を受け入れ。砲術・兵学を教える。島津文三郎のように、直伝の免許を受けた者もいた。中津藩のため、西洋式大砲二門を鋳造。しかし、1854(嘉永7)年に吉田松陰の密航事件に連座し、投獄・蟄居に。
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江戸中津藩邸内にて、佐久間象山に学んだ中津藩士・岡見彦三が「蘭学塾」を設立。投獄・蟄居となった佐久間象山の後任を薩摩藩・松木弘安(後の寺島宗則)、杉亨二らが担っていた。しかし、幕府において勝海舟が台頭。「適塾」で塾頭をしていた福澤諭吉は、大砲も判り、勝海舟とも通じるため、白羽の矢が立てられる。中津藩家老が福澤諭吉を招聘、蘭学塾を任せる。
1853(嘉永6)年
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杉亨二(24-25歳)、 勝海舟と知り合う。勝海舟の私塾、蘭学塾「勝塾」の塾長に。
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杉亨二、 老中・阿部正弘の侍講に。
1860(万延元)年
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杉亨二(31-32歳)、江戸幕府の「蕃書調所」教授手伝に。
1864(文久4/元治元)年
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杉亨二(35-36歳)、「開成所」教授に。洋書翻訳に従事している際、バイエルン王国における識字率についての記述に触れたことが、統計学と関わるきっかけに。
1869(明治2)年
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杉亨二(40-41歳)、明治維新後、静岡藩に仕える。「駿河国人別調」を実施するも、藩上層部の反対により、一部地域での調査と集計を行うに止まる。
1872(明治4)年12月24日/2月2日
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杉亨二(43歳)、太政官正院政表課大主記を命じられる。近代日本初の総合統計書『日本政表』の編成を行う。
1873(明治6)年7月
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森有礼(25-26歳)、アメリカより帰国。富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と考える。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」結成。初代社長に就任。会員には旧幕府官僚で、「開成学校」の関係者および「慶應義塾」門下生の官民調和で構成された。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。
1873(明治6)年
1873(明治6)年7月
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杉亨二(44歳)、「明六社」結成に参加。
1879(明治12)年
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杉亨二(50-51歳)、日本における国勢調査の先駆となる「甲斐国現在人別調」を甲斐国で実施。12月31日午後12時現在人を対象として行い、調査人2,000人、調査費用は約5,760円、そして調査対象となる甲斐国の現在人数は397,416人という結果を得る。
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杉亨二、統計学研究のため、表記学社や製表社(後に東京統計協会)設立。後進育成を図る。
1883(明治16)年9月
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杉亨二(54-55歳)、統計院有志と共に「共立統計学校」創立。教授長に。
1885(明治18)年12月
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杉亨二(57歳)、統計院大書記官の官職を辞す。以後、民間にあって統計の普及に努める。
1910(明治43)年
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杉亨二(81-82歳)、国勢調査準備委員会委員に。統計学者・呉文聰や衆議院議員・内藤守三らと共に、長年の念願であった国勢調査の実現のため尽力。
1917(大正6)年12月4日
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杉亨二(89歳)、念願であった第1回国勢調査の実施を見ること叶わず、病のため死去。享年、89歳。「日本近代統計の祖」と称される。
