津田塾大学

津田梅子

つだうめこ

1864(元治元)年12月3日/12月31日 - 1929(昭和4)年8月16日

1864(元治元)年12月3日/12月31日

  • 津田梅子、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に下総佐倉藩出自の旧幕臣・東京府士族・津田仙と母・初子の次女として生まれる。初名、むめ(うめ)。

1869(明治2年)

  • 津田仙(31-32歳)、幕府崩壊、官職を辞す。築地の洋風旅館、築地ホテル館に勤め、西洋野菜の栽培などを手がける。

1869(明治2年)

  • 津田梅子(4-5歳)、幕府崩壊に伴い、父・津田仙が職を失う。築地のホテル館へ勤め、一家で向島へ。

1871(明治4)年

  • 津田仙(33-34歳)、明治政府が設立した北海道開拓使の嘱託に。女子教育に関心のあった開拓次官・黒田清隆が政府が派遣する岩倉使節団に女子留学生を随行させることを企画すると、娘・津田梅子を応募。

1871(明治4)年

  • 津田梅子(6歳)、父・津田仙が明示新政府の事業・北海道開拓使の嘱託に。麻布へ移る。開拓使次官・黒田清隆は女子教育に関心をもっており、黒田清隆が企画した女子留学生に応募。

1871(明治4)年11月12日/12月23日 - 1873(明治6)年9月13日

岩倉遣欧使節団、岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

1871(明治4)年

  • 津田梅子(6歳)、岩倉遣欧使節団に随行、渡米。ワシントンへ。随行員5人の少女のうち、最年少であった。日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられる。

1872(明治5)年5月

  • 津田梅子(7歳)、随行員5人の少女のうち、2名が帰国。山川捨松(後に大山捨松)、永井繁子(後に瓜生繁子)と共にアメリカに残る。生涯の友となる。

1873(明治6)年7月

  • 津田梅子(8歳)、特定宗派に属さないフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受ける。ラテン語、フランス語など語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学ぶ。また、ランマン夫妻に連れ添われ、休暇に各地を旅行。

1878(明治11)年7月

  • 津田梅子(8歳)、「コレジエト・インスティチュート」卒業。私立の女学校「アーチャー・インスティチュート」進学。

1881(明治14)年

  • 津田梅子(16-17歳)、開拓使より帰国命令。山川捨松と共に、延長を申請。

1882(明治15)年7月

  • 津田梅子(17歳)、「アーチャー・インスティチュート」卒業。同年11月、10年超におよぶ留学より日本帰国。

  • 津田梅子、帰国するも、儒学の価値観が色濃く残る日本において、女子留学生が活躍できる場は乏しく。山川捨松、永井繁子はそれぞれ軍人へ嫁す。幼少からの長い留学生活により、日本語通訳が必要な状況に、日本の風習にも不慣れであった。

1883(明治16)年

  • 津田梅子(18-19歳)、外務卿・伊藤博文の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文と再会。華族子女を対象に教育を行う私塾「桃夭女塾」を開設した下田歌子を紹介される。

  • 津田梅子、父・津田仙との確執もあり、伊藤博文に雇われ、伊藤家に滞在。英語指導や通訳にあたる。

  • 津田梅子、下田歌子より日本語を学ぶ。「桃夭女塾」英語教師に。

1885(明治18)年

  • 津田梅子(20-21歳)、伊藤博文の推薦により、「華族女学校」英語教師に。翌1886(明治19)年、職制変更により嘱託に。華族の上流階級的気風には馴染めず。

  • 津田梅子、何度か薦められた縁談を断る。「二度と結婚の話はしないでください。話を聞くだけでもうんざりです」と、日本の結婚観に辟易し生涯未婚を誓う。

1888(明治21)年

  • 津田梅子(23-24歳)、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日。留学を薦められ、再度の留学を決意。父・津田仙の知人、日本の商業教育に携わっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘・クララの仲介により、留学希望を伝え学費免除の承諾を得る。「華族女学校」校長・西村茂樹より、2年間の留学を許可される。

1889(明治22)年7月

  • 津田梅子(24歳)、再び渡米。進化論においてネオ・ラマルキズムが反響を呼んでおり、「ブリンマー・カレッジ 」で生物学専攻。使命であった教授法に関する研究は、州立「オズウィゴー師範学校」で学ぶ。

  • 津田梅子、アリス・ベーコンがアメリカ帰国。日本習俗に関心を持ち、日本女性を研究。『日本の女性』出版を手助けする。これが、日本の女性教育に関心を持つきっかけになったとも言われている。日本女性留学のための奨学金設立を発起、公演や募金活動など行う。

1892(明治25)年8月

  • 津田梅子(27歳)、帰国。再び、「華族女学校」に勤める。

1894(明治27)年

  • 津田梅子(29-30歳)、「明治女学院」でも講師に。

1898(明治31)

1900(明治32)年

  • 津田梅子(35歳)、成瀬仁蔵の「日本女子大学校」創設運動や、高等女学校令・私立学校令公布など女子教育への機運の高まりを背景に、官職を辞す。

1900(明治32)年7月

  • 津田梅子(35歳)、父・津田仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子、桜井彦一郎らの協力を得て、「女子英学塾」創立。塾長に。華族平民の別の無い女子教育を志向、一般女子の教育を始める。それまでの行儀作法の延長としての女子教育と異なり、進歩的で自由な、レベルの高い授業が評判になる。独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模に。学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など、経営は厳しかった。

1902(明治35)年

  • 津田梅子(37-38歳)、名前を漢字に改め、梅子に。

1903(明治36)年7月

  • 津田梅子(38歳)、​専門学校令に基づき、「女子英学塾」を社団法人に。

1919(大正8)年1月

  • 津田梅子(54歳)、​「女子英学塾」の経営基礎が整うと、塾長辞職。創業期より健康を損ない、鎌倉の別荘で長期闘病。

1929(昭和4)年8月16日

  • 津田梅子(64歳)、死去。享年、64歳。生涯、独身を貫く。

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