東京大学
渡辺洪基
わたなべひろもと/こうき
1848(弘化4)年12月23日/1月28日 - 1901(明治34)年5月24日
1848(弘化4)年12月23日/1月28日
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渡辺洪基、越前府中善光寺通り(現在の越前市)に福井藩士の医者・渡辺静庵と母・蔦埜の間に長男として生まれる。
1857(安政4)年
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渡辺洪基(8-9歳)、府中「立教館」入学。後に福井藩校「済世館」で学ぶ。
1864(元治元)年
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渡辺洪基(15-16歳)、江戸に出る。佐倉の佐藤舜海に師事。
1865(慶応元)年
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渡辺洪基(16-17歳)、「慶応義塾」で福澤諭吉に師事。卒業後、会津で英学校を開く。
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渡辺洪基、戊辰戦争、幕府側として参戦。
1870(明治3)年
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渡辺洪基(21-22歳)、明治新政府に出仕。外務省大録に。
1871(明治4)年11月12日/12月23日 - 1873(明治6)年9月13日
岩倉遣欧使節団、岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。
1871(明治4)年
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渡辺洪基(22-23歳)、「岩倉遣欧使節団」随行。
1874(明治7)年
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渡辺洪基(25-26歳)、一等書記官に。オーストリア臨時代理公使。
1878(明治11)年
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渡辺洪基(29-30歳)、「学習院」次長に。
1882(明治15)年
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渡辺洪基(33-34歳)、元老院議官に。
1885(明治18)年
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渡辺洪基(36-37歳)、東京府知事に。
1886(明治19)年3月
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渡辺洪基(38歳)、「帝国大学」初代総長に。
1886(明治19)年3月
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「東京大学法政学部」、「帝国大学法科大学」に。法律学科、政治学科を設置。初代学長に、渡辺洪基。
1887(明治20)年10月
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渡辺洪基(39歳)、近代化の現場を支える職工育成を目的に、築地の地に日本で最古の私立の工業実業学校となる「工手学校(現在の工学院大学)」創立。
1887(明治20)年
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辰野金吾(32-33歳)、「帝国大学」初代総長・渡辺洪基の意向を受け、「工手学校」創立を推進。運営にも尽力。
1888(明治21)年11月28日
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渡辺洪基(40歳)、「帝国大学工科大学」学長事務取扱に。
1890(明治23)年
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渡辺洪基(41-42歳)、駐オーストリア特命全権大使に。
1892(明治25)年
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渡辺洪基(43-44歳)、両毛鉄道社長に。
1892(明治25)年
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渡辺洪基(43-44歳)、品川弥二郎の手引により、国民協会創立に参画。
1892(明治25)年
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渡辺洪基(43-44歳)、第2回衆議院議員総選挙に東京府第2区より出馬、当選。
1895(明治28)年
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渡辺洪基(46-47歳)、「慶應義塾」評議員に。
1897(明治30)年
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渡辺洪基(48-49歳)、貴族院議員に勅選。
1897(明治30)年12月28日
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渡辺洪基(49歳)、錦鶏間祗候に。
1898(明治31)年
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大倉喜八郎(54-55歳)、「大倉商業学校」設立趣意書を公表、西洋諸国と並ぶ商業の知識・道徳を備える人材を育てるため、私財を投ずることを決意。創立委員に渋沢栄一、渡辺洪基、石黒忠悳が名を連ねる。
1900(明治33)年
1901(明治34)年5月24日
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渡辺洪基(53歳)、死去。享年、53歳。
