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ダイガクコトハジメ - 高嶺秀夫

高嶺秀夫

出身校

  • 会津藩校・日新館

  • 日新舎

  • 三叉学舎

  • 慶應義塾

  • オスウィーゴー師範学校

  • アンダーソン学校

  • イサカ大学校

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年表 | 動画

高嶺秀夫

たかみねひでお

1854(嘉永7)年10月5日(旧暦・8月14日) - 1910(明治43)年2月22日

文部省官僚、慶應義塾教員、東京師範学校校長、高等師範学校校長、女子高等師範学校校長、東京美術学校校長、東京音楽学校校長、「師範学校の父」

「高嶺秀夫」に関する書籍 [外部]

  • 1854(嘉永7/安政元)年10月5日(旧暦・8月14日) 高嶺秀夫(1歳)、陸奥国若松城下の旧本四ノ丁(現・福島県会津若松市西栄町)に会津藩士・高嶺忠亮の長男として生まれる。

  • 高嶺秀夫、会津藩校・日新館で漢学を学び、頭角を現す。

  • 高嶺秀夫、南摩綱紀と共に、9代会津藩主・松平容保側近の小姓に。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年6月-11月 高嶺秀夫(15歳)、会津戦争、9代会津藩主・松平容保とともに籠城、降伏。

  • 高嶺秀夫、東京でしばらく監禁を宣告され、謹慎。丹波亀山藩松平家の保護下に置かれる。

  • 1870(明治3)年 高嶺秀夫(17歳)、謹慎が解かれる。斗南藩(旧・会津藩)の命にて、湯島天神下にある福地源一郎の私塾・日新舎に入塾。初めて英学に触れる。以後半年おきに鍛冶橋・土佐藩邸内の沼間守一私塾、箕作秋坪三叉学舎へ転学。

  • 1871(明治4)年7月 高嶺秀夫(18歳)、福澤諭吉慶應義塾に入塾。洋学・漢学を学ぶ。教員および童子局幹事に。教員同僚に矢野龍渓・後藤牧太ら。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6)年 田中不二麿(27-29歳)岩倉遣欧使節団文部省理事官として随行。アメリカ・アマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手に、欧米の学校教育を見聞・調査。また、教育顧問の日本招聘の任務も帯びる。帰国後、欧米教育制度を紹介した『理事功程』15巻を著す。

  • 1872(明治5)年 田中不二麿(28歳)、ワシントン駐在の日本国外交官・森有礼がラトガース・カレッジの学長ウイリアム・キャンベルに教育問題を質問状。この長文回答書をダビット・モルレーが執筆。この文書が教育顧問を探していた木戸孝允・田中不二麿の目にとまる。モルレーの招聘を検討。報酬月額600ドル、3年間の予定で契約が交わされることに。翌1873(明治6)年6月に来日。文部省学監として諸藩の教育事務に対する助言・建言を行う。省務を統括していた田中不二麿を助ける。

1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布

日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。

1872(明治5)年9月 師範学校創立

学制に基づき、初等・中等学校教員の養成を目的に日本初の官立教員養成機関・師範学校(後に東京師範学校、筑波大学の源流)創立。湯島聖堂内の昌平坂学問所(昌平黌)跡地に置かれる。1873(明治6)年9月、他の6大学区(愛知・大阪・広島・長崎・新潟・宮城)にて官立師範学校設立。東京の師範学校は東京師範学校に改称。

1873(明治6)年8月 6大学区で官立師範学校設立

名古屋・大阪・広島・長崎・新潟・仙台で師範学校設立。東京の師範学校は、東京師範学校に改称。師範学校は卒業後教職に就くことを前提に授業料が無料、生活も保障された。このため、優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割を果たす。

  • 1874(明治7)年1月 田中不二麿(30歳)文部省学監ダビット・モルレーより、日本も欧米諸国に倣い、女性を「児童ヲ教育スル最良ノ教師」として育成することが建言される。これに賛同、三条実美太政大臣へ「東京府下ニ一箇ノ女子師範学校ヲ設ケ」ることを伺い、承認される。同年3月13日、木戸孝允文部卿により、お茶ノ水橋袂に女子師範学校を設置する旨が布達発令。

  • 1874(明治7)年9月27日 田中不二麿(30歳)、文部大輔に。学制実施の実質上の責任者に、教育行政の要衝にあたる。

1874(明治7)年11月 東京女子師範学校開校

湯島聖堂(旧・昌平坂学問所)構内界隈(現・お茶の水橋袂)に日本最初の官立女子師範学校・東京女子師範学校創立。女子教育機関の最高峰とみなされる。​修業年限5年、課程は10級に分けられ、地理・歴史・物理学・化学大意・修身学・雑書・修辞・書取・作文・数学(算術・代数・幾何)・経済学・博物学・教育論・記簿法・養生書・手芸・画学・唱歌・体操・授業法・実地授業の学科目が講義される。

1872(明治5)年創立の女子中等教育機関・東京女学校からも相当数の生徒が東京女子師範学校予科転入。

  • 1875(明治8)年7月 - 1878(明治11)年5月 高嶺秀夫(22-25歳)、文部省師範学校教育調査に伊沢修二・神津専三郎らと共に抜擢される。東京開成学校選抜の派遣留学生11名とアメリカ留学。オスウィーゴー師範学校(現・ニューヨーク州立大学オスウィーゴ校)で学ぶ。教師養成のための進歩的で革新的な学校としての名声は絶頂期にあり、ペスタロッチ主義に基づく教育改革を推進する中心校であった。エドワード・シェルドン校長を通して、有名な教育者ヘルマン・クリュージイ家に寄宿するという幸運に恵まれる。

  • 1875(明治8)年 - 1878(明治11)年5月 伊沢修二(25-28歳)文部省師範学校教育調査のため、神津専三郎・高嶺秀夫と共にアメリカ留学。マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校で学ぶ。同時にグラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ。ハーバード大学で理化学を学び、地質研究なども行う。聾唖教育も研究。

  • 1876(明治9)年 田中不二麿(32歳)、教育令の起草に先立ち、フィラデルフィア万国博覧会の視察をかねて渡米。アメリカ各州の教育行政の調査を実施。高等教育の主力を私立大学が担う自由主義的なアメリカの教育制度に強い関心を抱く。

  • 1877(明治10)年 高嶺秀夫(24歳)、ペニキーズ島で自然史のアンダーソン学校に学ぶ。バートワイルダーの下、一学期間勉強。当時社会的に反響を呼んだダーウィンの進化論を知り、動物学を学ぶ。また、セイラムの夏季動物学校入学、海産動物の構造、組織を研究。次いで、冬季休業中、ニューヨーク州イサカ大学校でドクトル・ワイデルに動物学を学ぶ。

1878(明治9)年11月 東京以外の官立師範学校、府県に移管

西南戦争時の財政難により、東京師範学校東京女子師範学校を除く官立師範学校が廃校に追い込まれる。管轄を文部省より府県に移管。小学校教員養成を目的に府県が独自に設置した師範学校が多数存在したが、修業期間・入学年齢共にまちまちであった。

  • 1878(明治11)年 高嶺秀夫(25歳)、帰国。東京師範学校および附属小学校の教員に。アメリカ留学で学んだペスタロッチ主義教育の理論と方法を実践的に紹介・導入。

  • 1879(明治12)年 田中不二麿(35歳)、教育令を建白。学制にある画一的あるいは民生圧迫的な側面を退け、アメリカ式の地方主体による自由主義教育を基調としたものに。6歳から14歳の間における義務就学期間をわずか16ヶ月とし、校舎を設けず教員の巡回で教育を行う移動教育の導入、私立学校の開設認可制度を取り入れるなど、親や町村の教育負担を著しく軽減。一方、学監ダビット・モルレーは『学監考案日本教育方』・『学監考案日本教育法説明書』にて、全国の教育を標準化する公立小中学校の教則。府県学校監督官、教員免許学位・教科書などに対する管理権限を文部省に認めるなど、学制よりもさらに中央集権的な改正案を示した。これらは1879(明治12)年の教育令にはほとんど反映されなかったが、翌1880(明治13)年の改正教育令に強い影響を与える

  • 1879(明治12)年9月 伊藤博文(39歳)田中不二麿を中心に文部省原案として上申された『日本教育令』について、学区規定削除・文部卿職務権限条文削除など当時の政治情勢を反映して大きく修正。教育議を上奏、教育令発布に。

1879(明治12)年9月29日 教育令公布(自由教育令)

全国を7つの学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置するとした学制について、当時の国力や民情・文化の異なる日本では全国画一的に実施することが困難であり、多くの問題が生じていた。学制を廃止。地方の実情を重視するという立場から、文部省が中央集権的教育政策を改め、地方当局に教育行政を大幅に与えることに。アメリカの教育制度をモデルとし、自由教育令とも呼ばれる。その寛容さから学校教育の停滞を招く要因と批判があがる。翌1880(明治13)年、再度国家管理を強化する方向で改正される。

  • 1879(明治12)年 田中不二麿(35歳)、日本の学校における音楽教育の研究を目的に、文部省音楽取調掛を開設。伊沢修二を御用係に。彼らを欧米に派遣、『蝶々』『霞か雲か』『ローレライ』などのドイツ民謡を教育現場に取り入れると共に、音楽教育の近代化を図る。

  • 1879(明治12)年 伊沢修二(29歳)文部省音楽取調掛に。目賀田種太郎と連名にて、日本の音楽教育の意見書提出。米国で師事したボストン音楽学校創立者・ルーサー・メーソンを日本に招く。メーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植。『小學唱歌集』編纂。​

1881(明治14)年 師範学校教則大綱

教育令の下、『師範学校教則大綱』が定められる。府県管轄の師範学校について、就業期間・入学年齢ほか統一される。

  • 1881(明治14)年7月6日 高嶺秀夫(28歳)、東京師範学校校長兼教諭に。東京師範学校に動物学を開講。東京大学でも生物学教授・モースの助手を兼任、動物の科学的な解剖実験を行う。

  • 高嶺秀夫、1880年代、ペスタロッチ主義の原理と教授法を日本の教育養成機関に本格的に移植・普及。開発教授が師範学校を中心に全国に広まる。この功績より、「師範学校の父」と呼ばれる。

  • 1882(明治15)年 - 1883(明治16)年 伊沢修二(32-33歳)、師範学校教育研究のためのアメリカ留学から帰国した高嶺秀夫らと共に、小学師範学科教職員講習を通じてペスタロッチ主義による教育法を普及。生徒の自発性を重視する開発教育は全国に広まりブームに。

1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足

太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼

  • 1885(明治18)年12月22日 森有礼(39歳)、太政官制度廃止により内閣制度発足。第一次伊藤博文内閣にて初代文部大臣に就任。『学政要領』立案。

  • 森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」・「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく​。

  • 森有礼師範学校を「教育の総本山」と称して改革を行う。その教育には、全面的に軍隊式教育が取り入れられる。また、「良妻賢母教育こそ国是とすべきである」と声明。「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配布。

  • 1886(明治19)年 森有礼(40歳)、「学位令」を発令。日本における学位として大博士と博士の二等を定める。また、教育令に代わる一連の学校令「小学校令」・「中学校令」・「帝国大学令」・「師範学校令」公布。学校制度の整備に奔走。この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充された日本の学校制度の基礎を確立したものとなる。

1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令

教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。​​

1886(明治19)年4月10日公布 師範学校令

師範学校を「高等師範学校」と「尋常師範学校(師範学校)」の2つに分ける。「高等師範学校」を東京に1校設置することとし、東京師範学校高等師範学校(後に東京高等師範学校、現・筑波大学)となる。国費により運営(尋常小学校は府県の地方税により運営)。卒業生は原則として尋常師範学校(師範学校)の校長および教員に任命するとされる。

  • 1890(明治23)年5月12日 伊沢修二(40歳)、奏楽堂を含む校舎を新築。日本最初の音楽教員・音楽家・音楽鑑賞家の養成機関として東京音楽学校開校。当初は西洋音楽の教育を中心とする。修業年限1年の予科と本科(2年制の師範科および3年制の専修科)から構成。

  • 1891(明治24)年、東京音楽学校、開校まもなく国費節減と関連して帝国議会で存廃論議が起こる。

  • 1892(明治25)年8月 伊沢修二(42歳)、国立教育期成同盟を結成。文部省退官、小学校教育費国庫補助運動を開始。

  • 1897(明治30)年11月19日 高嶺秀夫(44歳)、​女子高等師範学校校長に。12年余にわたり在任、女子教育に尽力。

  • 1898(明治31)年 岡倉天心(36歳)、自身の長年の後援者であった文部官僚・九鬼隆一の妻・九鬼波津子との不倫が公に。東京美術学校での専権的な学校運営に対する批判も表面化。帝室博物館美術部長東京美術学校校長を罷免される。教師陣は、黒田清輝ら西洋画科を除き全教師が一斉辞職を決議。橋本雅邦、西郷孤月、菱田春草、寺崎広業、横山大観、岡部覚弥、桜岡三四郎が辞職。辞職教官と共に、日本美術院を下谷区谷中大泉寺に発足(美術学校騒動)。

  • 1898(明治31)年3月29日 高嶺秀夫(45歳)、日本の伝統美術に造詣が深く、浮世絵の収集は、3千点以上に及ぶ。浮世絵の研究を通じ、伝統美術の保護を進めたフェノロサ・岡倉天心とも親交を結んでいた。岡倉天心の美術学校騒動による罷免を受け、後任として東京美術学校校長に。教授陣の復職についても一任され、騒動を収拾。

 

 

  • 1907(明治40)年 高嶺秀夫(54歳)、文部省公設展覧会が開催されると、第1回審査員に。

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  • 1910(明治43)年2月22日 高嶺秀夫(57歳)、死去。享年57歳。従三位に叙せられ、勲二等瑞宝章を授かる。

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