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ダイガクコトハジメ - 鍋島閑叟

鍋島直正(鍋島閑叟)

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1639(寛永16)年 - 1854(嘉永7)年 鎖国政策

江戸幕府がキリスト教国(スペイン・ポルトガル)人の来航、および日本人の東南アジア方面への出入国を禁じ、貿易を管理・統制・制限。1853(嘉永6)年7月8日、浦賀へアメリカのペリー・マシュー率いる黒船来航。1854(嘉永7)年3月31日、日米和親条約締結により、開国に至る。

この間、江戸幕府の天領・長崎が、日本で唯一西ヨーロッパに開かれた貿易港として繁栄。出島に移設されたオランダ商館を通じ、オランダ・中国と貿易。

  • 1781(安永10/天明元)年、佐賀藩第8代藩主・鍋島治茂、儒学者・古賀精里に命じ、佐賀城に近い松原小路に佐賀藩校・弘道館(学館)設立。水戸藩校・出石藩校の弘道館と並び、「天下三弘道館」と称される。

  • 1781(安永10/天明元)年 古賀精里(32歳)、佐賀に帰藩、藩主・鍋島治茂に仕える。主命により、佐賀城に近い松原小路に佐賀藩校・弘道館(学館)創立。教授に。水戸藩・出石藩(但馬国)の藩校・弘道館と並び称され、天下三弘道館と呼ばれる。幕末から明治維新にかけて活躍した副島種臣、大木喬任大隈重信、佐野常民、江藤新平(平胤雄)、島義勇ら多数の英傑を輩出。

  • 1806(文化3)年 古賀穀堂(29歳)、佐賀に帰藩。佐賀藩校・弘道館の教授に任じられる。佐賀藩第9代藩主・鍋島斉直に意見書『学政管見』提出。「教育予算は削らず、逆に三倍に増やすべき」など提言、教育の重要性を訴えるのみならず、学問に励まない藩士・僧侶の処罰、儒学以外の医学・蘭学の振興の必要性を訴える。

  • 1815(文化12)年1月16日(旧暦・12月7日) 鍋島直正(鍋島閑叟)(1歳)、肥前佐賀藩に第9代藩主・鍋島斉直と池田治道の娘・幸の十七男として生まれる。

  • 1817(文化14)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(3歳)、第11代将軍・徳川家斉より松平姓を賜る。

  • 1819(文政2)年 古賀穀堂(42歳)、佐賀藩世子・貞丸(後の鍋島正直)の側頭に。江戸において世子教育にあたる。鍋島直正佐賀藩に西洋技術を積極的に導入する素養を育む。

  • 1823(文政6)年 古賀穀堂(46歳)、江戸詰藩士の教育機関として、学問所・明善堂設置。

  • 1824(文政7)年 - 1828(文政11)年 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(27-31歳)、オランダ陸軍軍医として来日、長崎出島に居住。貿易のため、日本研究も命じられる。当時、外国人は出島を出ることは許可されていなかったが、医師として特別に許される。長崎郊外に私塾・鳴滝塾設立、オランダ医学・自然科学を教える。高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・戸塚静海ら50人以上が学ぶ。

  • 1826(文政9)年4月 伊東玄朴(26歳)、オランダ商館長(カピタン)の江戸参府にシーボルトが随行、一緒に江戸へ向う。江戸に留まり、佐賀藩医の身分で蘭学の諸同志と交流。

  • 1827(文政10)年12月22日 鍋島直正(鍋島閑叟)(13歳)、第11代将軍・徳川家斉の名一文字を賜り、諱を斉正と定める。従四位下信濃守叙任。

  • 1828(文政11)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(14歳)、侍従に任ぜられる。信濃守兼任。

1828(文政11)年9月 シーボルト事件

オランダ商館付医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが日本から帰国する直前。国外持ち出し厳禁の日本地図が見つかる。これを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか、十数名が処分。高橋景保は獄死。

  • 1830(文政13/天保元)年2月7日 鍋島直正(鍋島閑叟)(16歳)、第9代藩主・鍋島斉直の隠居を受け、肥前佐賀藩第10代藩主に襲封。肥前佐賀藩主に。信濃守より肥前守に任替。フェートン号事件以来、長崎警備等の負担重く、先代の奢侈、シーボルト台風の甚大な被害もあり、藩の財政は破綻状態に。藩政改革に乗り出すも、江戸の前藩主・鍋島斉直とその取り巻きら保守勢力の影響が大きく、倹約令の発令など打ち手に苦慮。

  • 1830(文政13/天保元)年 古賀穀堂(53歳)鍋島直正(鍋島閑叟)が佐賀藩第10代藩主を継ぐと、年寄相談役に任じられる。佐賀に帰藩。

  • 1830(文政13/天保元)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(16歳)、佐賀藩校・弘道館(学館)の充実・拡充を指示。優秀な人材を育成し登用するなど、教育改革を断行。

  • 1831(天保2)年 古賀穀堂(54歳)鍋島直正(鍋島閑叟)に意見書『済急封事』提出。藩政改革の基本を「人才の登用」「勤倹の奨励」「藩士の三病(妬忌嫉妬・優柔不断・負け惜しみ)の除去」と論じる。『葉隠』を崇拝し、その他の学問を軽視する藩内の風潮を批判。

  • 1831(天保2)年 伊東玄朴(31歳)、士分に昇格。佐賀藩医官に。江戸に蘭学塾・象先堂創立、杉谷雍助・佐野常民ら多くの門人を輩出。

  • 1835(天保6)年12月16日 鍋島直正(鍋島閑叟)(21歳)、左近衛権少将に転任。肥前守兼任。

  • 1835(天保6)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(21歳)、藩の中枢であった佐賀城二の丸が大火で全焼。前藩主・鍋島斉直の干渉を押し切り、佐賀城再建を実行。これを機に歳出削減、借金割賦を認めさせ、また磁気・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を断行。財政改善。

  • 鍋島直正(鍋島閑叟)、古賀穀堂『学政管見』意見書に沿うかたちで、佐賀藩校・弘道館を拡充。優秀な人材を育成、出自を問わずに積極的に政務の中枢へ登用するなど、教育改革を断行。蘭学・医学を他藩に先駆けて導入、佐賀藩の西洋化を推進。

  • 1835(天保6)年 古賀穀堂(58歳)、保守派の抵抗により藩政改革は困難を極めたが、佐賀城火災をきっかけに改革が急速に進む。医学館医学寮(後に好生館)設立、上級家臣師弟の佐賀藩校・弘道館出仕義務など教育改革を実行。改革半ばに病に倒れる。

  • 1836(天保7)年10月25日(旧暦・9月16日) 古賀穀堂(59歳)、死去。享年59歳。鍋島直正(鍋島閑叟)「父子親の如し」と孝心を表し、その恩を「海山の如し」と回顧。人格・思想形成に深く影響を与えられる。

  • 1840(天保11)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(26歳)、佐賀藩校・弘道館を北堀端に移転拡充、蒙養舎設立。15歳以下の藩士子弟を教育。古賀穀堂『学政管見』で訴えた教育政策はほぼそのまま実施されるかたちに。170石だった教育予算は、1,000石に加増される。

  • 1840(天保11)年 - 鍋島直正(鍋島閑叟)(26-歳)、アヘン戦争で清国がイギリスに敗北、長崎警備の任を担っていた佐賀藩でも欧米列強に対する危機感が急速に高まる。長崎警備・長崎港警備の強化を掲げるも、幕府の財政難で支援を得られず。独自に西洋の軍事技術導入を図る。精錬方設置、反射炉などの科学技術の導入と展開に努める。結果、後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功。蒸気船や西洋式帆船の基地として三重津海軍所設置。蒸気機関・蒸気船の製造にも成功。

  • 1843(天保14)年12月 伊東玄朴(43歳)、佐賀藩第10代藩主・鍋島直正(鍋島閑叟)の侍医に。7人扶持で召し抱えられる。

  • 1848(弘化5/嘉永元)年 江藤新平(15歳)、水戸藩・但馬国出石藩の同名藩校と並び「天下三弘道館」と称された、佐賀藩校・弘道館で学ぶ。内生課程は成績優秀で学費の一部を官給。父が職務怠慢の咎により郡目付役を解職・永蟄居の処分に、生活は困窮。外生課程に進学せず。

  • 江藤新平佐賀藩校・弘道館教授で儒学・国学者であった枝吉神陽の私塾に学ぶ。神道や尊皇思想に影響される。

1849(嘉永2)年3月 蘭書翻訳取締令

漢方医と蘭方医の対立が深刻化。漢方医側の政治工作もあり、蘭方医学の徹底的な取締開始。幕府医師の蘭方使用を禁止。全ての医学書は漢方医が掌握する医学館の許可を得ることに。

翌1850(嘉永3)年9月、蘭書の輸入が長崎奉行の許可制に。諸藩に対し、海防関係書の翻訳を老中および天文方に署名届出するものとした。蘭学に関する出版が困難に。蘭学の自由な研究が制約される。

  • 1849(嘉永2)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(35歳)、1846(弘化3)年より佐賀藩内で天然痘が大流行。当時不治の病であった天然痘根絶のため、佐賀藩医・伊東玄朴の進言により、長崎出島のオランダ商館を通じて牛痘種痘苗を入手。佐賀城内にて種痘接種。佐賀藩が漢方から蘭方医学へ転換する象徴的な出来事となる。この痘苗は、長崎・佐賀を起点とし、複数の蘭方医の手によって、5か月ほどの短い間に京都・大阪、江戸、福井へと伝播。

  • 1849(嘉永2)年7月20日 伊東玄朴(49歳)、佐賀藩に牛痘種痘苗の入手を進言。オランダ商館を通じ、入手に成功。この痘苗が長崎から京都・大阪・福井から北陸へと広まる。10月に江戸に運ばれ、関東や東北へ広まる。

  • 1849(嘉永2)年12月15日(旧暦・11月1日) 緒方洪庵(40歳)、京都に赴き滞在7日、出島の医師オットー・モーニッケが輸入した痘苗を入手。古手町(現・大阪市中央区道修町)に大坂除痘館設立。牛痘種痘法による切痘を始める。

  • 1849(嘉永2)年12月 佐藤泰然(46歳)、佐倉藩に牛痘を導入。普及に努める。

  • 1850(嘉永3)年 大木喬任(19歳)、副島種臣・島義勇らと共に、枝吉神陽の義祭同盟結成に参加。後に、江藤新平大隈重信らも加わる。勤王派として藩政改革を推進、藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るが果たせず。この義祭同盟より、明治維新に大きな影響を与えた人材が多数輩出される。

  • 1850(嘉永3)年 江藤新平(17歳)枝吉神陽を発起人に大木喬任・副島種臣・島義勇らが結成した義祭同盟に、大隈重信と共に参加。勤王派として藩政改革を推進。藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るも果たせず。この義祭同盟より、明治維新に大きな影響を与えた人材が多数輩出される。

  • 1850(嘉永3)年 大隈重信(13歳)佐賀藩校・弘道館教授・枝吉神陽から国学を学ぶ。枝吉神陽を発起人に、副島種臣・島団右衛門(島義勇)・大木幡六(大木喬任)・木原義四郎(木原隆忠)ら同志38名により義祭同盟を結成。第一回の祭祀を行う。当初は尊王論を拡げるための枝吉神陽の私塾であったが、尊皇思想を藩内に広めることで藩論を尊王討幕へ向かわせることを目的とする政治結社の色合いを強めていく。江藤新平らと参加。

  • 1851(嘉永4)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(37歳)、佐賀藩校・弘道館(学館)内に医学寮蘭学寮設置。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

1853(嘉永6)年 安政の改革

黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所長崎海軍伝習所を設置。

  • 1853(嘉永6)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(39歳)、江戸幕府老中・阿部正弘による意見募集にて、アメリカの武力外交に対する強固な攘夷論を唱える。品川台場建設に佐賀藩の技術を提供、阿部正弘の信頼を得る。一方で、開国以前から密貿易で利益を上げていたとされるほど貿易の重要性を熟知、イギリスの親善外交に対して開国論を主張する。

  • 1855(安政2)年 大隈重信(18歳)佐賀藩校・弘道館の漢学を中心とした閉鎖的な教育に反発、南北寮の同志と共に藩校改革を訴え騒動を起こす。騒動の首謀者と目され、退学。

  • 1856(安政3)年 大隈重信(19歳)、佐賀藩校・蘭学寮に転じる。医学・兵学・砲術・築城術などを学ぶ。次いで、政治・外交・経済を学ぶ。

1856(安政3)年6月 蘭書翻訳取締令

新刻の蕃書・翻訳書について、新設の蕃書調所に提出・検閲を受けることに。一般の翻訳書は書目年次を届出、翻訳が完成次第、蕃書調所に1部提出することとする。しかし、外国貿易が本格化するに従い、蘭書を始めとする洋書の輸入が長崎港以外でも行われるように。輸入許可制はなし崩しの状態となる。

  • 1856(安政3)年 江藤新平(23歳)、江戸時代後期の外国船の日本近海への出没、アメリカ・ペリー艦隊やロシア・プチャーチン艦隊など来航による通商要求など時勢を受け、開国論の必要性を説いた『図海策』執筆。​

  • 1857(安政4)年8月 伊東玄朴(57歳)大槻俊斎の家に戸塚静海・箕作阮甫ら蘭方医10人と斎藤源蔵が集まり、種痘所開設を会議。幕閣の開明派・川路聖謨に働きかけ。種痘所の計画用地として川路聖謨の神田於玉ヶ池の屋敷の一角を借りることとする。

1858(安政5)年5月7日 お玉が池種痘所設立

江戸にて、蘭方医学解禁。大槻俊斎伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫林洞海・竹内玄同・石井宗謙・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名が出資し、お玉が池種痘所東京大学医学部の源流)設立。初代所長に、大槻俊斎

  • 1859(安政6)年12月16日 鍋島直正(鍋島閑叟)(45歳)、左近衛権中将に転任。肥前守兼任。

  • 1860(安政7/万延元)年 大木喬任(29歳)佐賀藩校・弘道館から選ばれ、江戸遊学。

  • 1860(安政7/万延元)年 相良知安(25歳)、福地文安と共に佐賀藩校・好生館の教官に抜擢される。

  • 1861(万延2/文久元)年11月20日 鍋島直正(鍋島閑叟)(47歳)、家督を長男・鍋島直大に譲り、隠居。閑叟を号する。

  • 1862(文久2)年12月25日 鍋島直正(鍋島閑叟)(48歳)、上京、関白・近衛忠煕に面会。「長崎警備は他大名でも担当できるが、大阪・京都の警備には実力が必要であり、私であれば足軽30人と兵士20人の兵力で現状の警備を打ち破れる」とし、京都守護職任命を要請。薩摩藩など他藩からも守護職要請があり、立ち消えとなる。

  • 1862(文久2)年 江藤新平(29歳)、同志の大木喬任が活動資金を工面、佐賀藩を脱藩。尊王攘夷運動に身を投じ、京都で活動。長州藩士・桂小五郎(木戸孝允)、公家・姉小路公知らと接触。2ヶ月ほどで帰郷、通常脱藩は死罪であるが、見識を高く評価する鍋島直正の直截裁断により、永蟄居(無期謹慎)に罪を軽減される。

  • 江藤新平、蟄居後、寺子屋師匠など務める。同士との密かな交流を続け、幕府による長州征伐(幕長戦争)での出兵問題では鍋島直正への献言を行うなど、政治的活動を続ける。

  • 1864(文久4/元治元)年4月17日 鍋島直正(鍋島閑叟)(50歳)、参議に補任されるも、固辞。

  • 1864(文久4/元治元)年頃 大隈重信(27歳)鍋島直正より副島種臣と共に長崎での洋学研究を命じられる。長崎の幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)にて、来日直後のフルベッキに英語を学ぶ。新約聖書とアメリカ合衆国憲法を教材に英語学習、あわせてキリスト教と近代民主主義の精神を学ぶ。うち、アメリカ合衆国憲法に記された基本的人権と議会制民主主義の思想は、民主主義思想の根幹となり、生涯にわたる決定的な影響となる。長崎遊学時代に後藤象二郎・坂本竜馬・岩崎弥太郎らと親交を持つ。

  • 大隈重信、長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説くも、藩政に影響するには至らず。

  • 1867(慶応3)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(53歳)、佐賀藩諫早家の屋敷内に、英学校・致遠館設立。翌年1868(慶応4)年に副島種臣・大隈重信の手引きにより幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)で教えていたオランダ人宣教師フルベッキが校長として招かれる。新約聖書とアメリカ合衆国憲法をテキストとし、欧米の政治制度・法制度の講義や議論が盛んに行われる。副島種臣・大隈重信もフルベッキに学びながら、教頭格として教壇に立つ。佐賀藩のみならず広く他藩の人材も在学。勝海舟の子・勝小鹿、岩倉具視の子・岩倉具定・岩倉具経、服部一三相良知安ほか100余名の学生を擁する。1869(明治2)年4月、フルベッキが明治新政府より招かれ上京、大学南校(現・東京大学)教師に。閉校。

  • 1867(慶応3)年 大隈重信(30歳)、副島種臣と共に長崎の幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)で英語を学んだオランダ人宣教師フルベッキを佐賀藩に迎え入れる。長崎五島町の諌早藩士・山本家屋敷を改造した英学校・致遠館にて、フルベッキを校長に。副島種臣と共に教頭格となる。学校運営と教育に熱中、宣教師フルベッキより英語を学びながら、自らも教壇に立つ。

  • 1867(慶応3)年 大隈重信(30歳)京都と長崎を往来、尊王派として活動。副島種臣と共に、将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画。脱藩して京都へ赴くも、捕縛。佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受ける。

  • 鍋島直正(鍋島閑叟)、幕末激動の中、政界において佐幕・尊王・公武合体派いずれとも均等に距離を置いたため、「肥前の妖怪」と警戒される。参預会議や小御所会議などで発言力を持てず、伏見警護のための京都守護職を求めるも実らず。政治力・軍事力共に発揮できなかったことを背景に、佐賀藩内における犠牲者は最小限に。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年 大隈重信(31歳)、明治維新、幕府役人が去った長崎の管理を行うため、佐賀藩命により長崎赴任。仮政府を采配。2月14日、朝廷より長崎裁判所総督・澤宣嘉と参謀・井上馨が赴任、引継ぎを行う。長崎裁判所参謀助役として、イギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮するなど、外国人との訴訟を処理。井上馨、「天下の名士を長崎においておくのは良くない」とその語学・行政力を評価、木戸孝允に明治新政府への登用を推薦。徴士参与職・外国事務局判事に。12月18日には前任の小松清廉(小松帯刀)の推挙により、外国官副知事に。

  • 1868(慶応4/明治元)年 相良知安(33歳)、佐賀藩校・好生館教導方差次に。佐賀藩主・鍋島直正公の侍医となる。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(54歳)、鳥羽・伏見の戦いの際、薩摩藩より佐賀征伐の声が挙がる。新政府軍の勝利以降、上京した佐賀藩も新政府軍に参加。上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、アームストロング砲ほか最新式兵器を装備した軍の活躍は大きく、討幕運動には不熱心であったが薩長土肥の一角を担うことに。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月13日(旧暦・12月9日) 江藤新平(35歳)、副島種臣と共に京都へ派遣される。

  • 1868(慶応4/明治元)年 江藤新平(35歳)、新政府軍の東征大総督府軍監・徴士に。土佐藩士・小笠原唯八と共に、江戸偵察。江戸開城が決定、城内の文書類を接収。鎮将府・江戸府の各判事として、民政・会計・財政・都市問題など担当。江戸の人心収拾と復興に尽力

  • 1868(慶応4/明治元)年3月1日 鍋島直正(鍋島閑叟)(54歳)、明治新政府の議定に。

  • 1868(慶応4/明治元)年3月2日 鍋島直正(鍋島閑叟)(54歳)、軍防事務局輔兼任。

  • 1868(慶応4/明治元)年3月9日 鍋島直正(鍋島閑叟)(54歳)、軍防事務局輔兼任より制度事務局輔に兼任替え。

  • 1868(慶応4/明治元)年3月14日 鍋島直正(鍋島閑叟)(54歳)、諱を直正に改める。

​1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し

官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。

  • 1868(慶応4/明治元)年4月22日 鍋島直正(鍋島閑叟)(54歳)、従二位に昇叙。権中納言に転任。

  • 1868(慶応4/明治元)年5月15日 江藤新平(35歳)、彰義隊の問題にて、大村益次郎らと共に討伐を主張。軍監として上野戦争で戦い、彰義隊勢を寛永寺周辺に追い詰める。佐賀藩のアームストロング砲を遠方射撃する戦術などにより彰義隊は瓦解。

  • 1868(慶応4/明治元)年 江藤新平(35歳)、岩倉具視に対し、大木喬任と連名で江戸を東京と改称、遷都すべきこと(東京奠都)を献言。献言が認められる。明治天皇が行幸、江戸は東京と改称される。

1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都

江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。

  • 1868(慶応4/明治元)年 大木喬任(37歳)、明治新政府に出仕。外国事務局・京都府・軍務官の各判事に着任。

  • 1869(明治2)年1月10日 大隈重信(32歳)、再び参与に。贋金問題が外交懸案となっていたことを背景に、イギリス公使パークスと対等に交渉ができることから会計官御用掛を兼任。3月30日、会計官副知事に。高輪談判処理や新貨条例制定、版籍奉還への実務など担務。

  • 1869(明治2)年4月13日 鍋島直正(鍋島閑叟)(55歳)、行政官機務取扱兼任。

  • 1869(明治2)年5月3日 鍋島直正(鍋島閑叟)(55歳)、待詔院上局議長兼任。

  • 1869(明治2)年5月7日 鍋島直正(鍋島閑叟)(55歳)、待詔院上局議長兼任を解かれ、制度寮総裁兼任。

  • 1869(明治2)年5月18日 鍋島直正(鍋島閑叟)(55歳)、制度寮廃止。制度寮総裁兼任が解かれる。

  • 1869(明治2)年6月4日 鍋島直正(鍋島閑叟)(55歳)、蝦夷開拓督務兼任。

1869(明治2)年 版籍奉還

諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。

  • 1869(明治2)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(55歳)、知藩事として最初に賛同の意を示す。

  • 1869(明治2)年 江藤新平(36歳)、佐賀に帰郷。権大参事に、藩政改革を指導。

  • 1869(明治2)年7月3日 鍋島直正(鍋島閑叟)(55歳)、議定辞任。

  • 1869(明治2)年7月13日 鍋島直正(鍋島閑叟)(55歳)、蝦夷開拓督務の組織替え、開拓長官就任。

  • 1869(明治2)年8月6日 鍋島直正(鍋島閑叟)(55歳)、開拓長官から大納言に転任。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 二官六省制に

官制の大改正、神祇官・太政官が天皇を補佐、国政全般にあたる。太政官の下、民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務省の六省が置かれる。徴税(民部省)と財政(大蔵省)機構の一体化による中央集権体制の確立を主張する木戸孝允一派の働きかけにより、翌月9月16日(旧暦・8月11日)に民部省と大蔵省が合併。形式上は両省とも存続され、卿以下少丞以上の幹部が両省の役職を兼ねることに。民部大蔵省とも称される。​一方、地方官の支持を受け、大久保利通が主導して広沢真臣・副島種臣・佐々木高行の4参議で再分離を求めた結果、翌年1870(明治3)年8月6日(旧暦・7月10日)に再度分離。

その後、1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日)に殖産興業を推進する工部省が民部省より分離される。翌年1871(明治4)年9月11日(旧暦・7月27日)に民部省が大蔵省に合併される。民部省廃止。

  • 1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大隈重信(32歳)、二官六省制により、大蔵大輔に。中央集権体制確立を主張する木戸孝允一派のナンバー2の立ち位置に。翌月9月16日(旧暦・8月11日)、大蔵・民部両省の合併を実現、民部大輔を兼ねる。巨大な権力を持つ民部大蔵省の実力者として、地租改正などの改革を担うと共に、殖産興業政策を推進。官営の模範製糸場・富岡製糸場設立、鉄道・電信建設などに尽力。これらの急進的な改革は、副島種臣・佐々木高行・広沢真臣など保守派、民力休養を考える大久保利通の嫌うところに。4参議の求めにより、1870(明治3)年8月6日(旧暦・7月10日)に大蔵省・民部省が再度分離。

  • 1869(明治2)年9月 江藤新平(36歳)、明治新政府より求められ、政府に復帰。太政官中弁に。

  • 1869(明治2)年12月 江藤新平(36歳)、虎ノ門にて佐賀藩の卒族に襲撃され、負傷。

  • 1870(明治3)年8月1日 鍋島直正(鍋島閑叟)(56歳)、病気罹患。大納言を辞す。

  • 1871(明治4)年1月18日 鍋島直正(鍋島閑叟)(57歳)、逝去。享年57歳。正二位を贈位。後に、従一位追贈。「佐賀の七賢人」の一人。

鍋島直正(鍋島閑叟)

なべしまなおまさ(なべしまかんそう)

1815(文化12)年1月16日(旧暦・12月7日) - 1871(明治4)年3月8日(旧暦・1月18日)

肥前佐賀藩第10代藩主、藩政改革により蘭学・医学を他藩に先駆けて導入、医学館医学寮(後に好生館)・蘭学寮・致遠館設立、佐賀の七賢人」・「そろばん大名」・「蘭癖大名」・「肥前の妖怪」

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