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ダイガクコトハジメ - 菊池大麓

菊池大麓

出身校

  • 蕃書調所

  • ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ

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参考情報

参考文献・書籍

菊池大麓

きくちだいろく

1855(安政2)年3月17日(旧暦・1月29日) - 1917(大正6)年8月19日

理学博士、東京大学理学部教授・理学部長、帝国大学理科大学初代学長、東京帝国大学第5代総長、学習院第8代院長、京都帝国大学第3代総長、文部次官、文部大臣、明六社帝国学士院(現・日本学士院)第2代院長、財団法人理化学研究所初代所長

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  • 1855(安政2)年3月17日(旧暦・1月29日) 菊池大麓(1歳)、江戸に蘭学者・箕作秋坪と母・つねの間に次男として生まれる。父・箕作秋坪の実家、菊池家の養嗣子に。母・つねは、蘭学者・箕作阮甫の二女。

1857(安政4)年2月 藩書調所発足

洋学所を藩書調所東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪中村敬輔(中村敬宇・中村正直)加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。

  • 藩書調所、幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に隆盛な英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は活況、書籍は次第に充実。自然科学まで対象を拡げる。

  • 1861(万延2/文久元)年8月5日(旧暦・6月29日) 箕作麟祥(16歳)蕃書調所の英学教授手伝並出役。この頃より英学私塾を開く。乙骨太郎乙・鈴木唯一・外山正一菊池大麓・箕作佳吉・大島貞益らに英学教授。

  • 1867(慶応3)年 菊池大麓(13歳)、英国留学。

  • 1870(明治3)年 菊池大麓(16歳)、2度目の英国留学。ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジで数学・物理学を学ぶ。学位取得。大学時代は数学で常に首席を占める。

1873(明治6)年7月 明六社結成

アメリカより帰国した森有礼、富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と提言。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福沢諭吉加藤弘之中村正直西周西村茂樹・津田真道・箕作秋坪杉亨二箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる明六社結成。初代社長に。会員には旧幕府官僚、開成所の関係者および慶應義塾門下生の官民調和で構成される。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。

  • 1874(明治6)年 菊池大麓(20歳)福沢諭吉の推薦、森有礼創立の明六社に参加。

1877(明治10)年4月12日 東京大学創立

東京開成学校本科東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。

法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。

  • 1877(明治10)年 菊池大麓(23歳)、帰国後、東京大学理学部教授に。近代数学を初めて日本にもたらす。

1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革、総合大学誕生

東京大学法学部・理学部・文学部三学部東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法学部・理学部・文学部三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。

1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学

高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。帝国大学初代総長に渡辺洪基を勅任。

1887(明治20)年5月21日 学位令

日本の学位制度について、統一的に規定した勅令。5箇条からなる。

1.学位を、博士及び大博士の2等とする。
2.博士の学位は、法学博士、医学博士、工学博士、文学博士、理学博士の5種とする。
3.博士の学位は、次の2通りの場合に、文部大臣において授与する。
大学院に入り定規の試験を経た者にこれを授ける。
これと同等以上の学力ある者に、
帝国大学評議会の議を経てこれを授ける。
4.大博士の学位は、文部大臣において、博士の会議に付し、学問上特に功績ありと認めた者に、閣議を経てこれを授ける。
5.本令に関する細則は、文部大臣がこれを定める。

  • 1887(明治20)年10月4日 伊沢修二(37歳)文部省音楽取調掛長であった自身のほか、菊池大麓外山正一・穂積陳重ら代表的学者7名が連署した『音楽学校設立ノ儀ニ付建議』に基づき、文部省音楽取調掛を改称して東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)創立。初代校長に。日本最初の音楽教員・音楽家・音楽鑑賞家の養成機関であり、当初は西洋音楽の教育を中心とする。修業年限1年の予科と本科(2年制の師範科および3年制の専修科)から構成。

  • 1888(明治21)年5月7日、学位令に基づき、25名に初めて博士の学位が授与される。「法学博士」箕作麟祥田尻稲次郎・菊池武夫・穂積陳重・鳩山和夫、「医学博士」池田謙斎・橋本綱常・三宅秀高木兼寛・大沢謙二、「工学博士」松本荘一郎・原口要・古市公威・長谷川芳之助・志田林三郎、「文学博士」小中村清矩・重野安繹・加藤弘之・島田重礼・外山正一理学博士」伊藤圭介・長井長義・矢田部良吉・山川健次郎・菊池大麓

  • ​1888(明治21)年 菊池大麓(34歳)、日本最初の理学博士に。

  • 1889(明治22)年 菊池大麓(35歳)、東京学士会院(後に帝国学士院、現・日本学士院)会員に専任。

  • 1890(明治23)年 菊池大麓(36歳)、貴族院議員に勅選。

  • 1901(明治34)年 菊池大麓(47歳)、第1次桂太郎内閣、文部大臣に。科書疑獄事件により引責辞任。

  • 1904(明治37)年 菊池大麓(50歳)、学習院第8代院長に。

1906(明治39)年 帝国学士院設立

帝国学士院規程の勅令公布。研究者に対する顕彰等の事業を通じ、日本の学術の発展を図る目的で設置。文部大臣の管理下に置かれ、勅旨により会員を任命。定数60人。日本列島だけでなく、台湾や南樺太など外地からも選任される。初代院長に、加藤弘之

  • 1909(明治42)年 菊池大麓(55歳)、帝国学士院(現・日本学士院)第2代院長に。

  • 1917(大正6)年 菊池大麓(63歳)、高峰譲吉・櫻井錠二ら国民科学研究所構想。渋沢栄一を設立者総代に、財団法人理化学研究所創立。初代所長に。

  • 1917(大正6)年8月19日 菊池大麓(63歳)、死去。享年63歳。

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  • 菊池大麓|大学事始「大学の 始まり”物語。」
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