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ダイガクコトハジメ - 福澤諭吉 - 大学の始まり物語

福澤諭吉

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福澤諭吉

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  • 福沢諭吉|大学事始「大学の 始まり”物語。」

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
【前編】 約2,000文字(読了目安:5分程度)

【後編】 約2,000文字(読了目役:5分程度)​

【前編】​

​「天は人の上に人を造らず」

福澤諭吉の大学”始まり”物語

序章:不遇からの脱出、知への渇望
 

 福澤諭吉の物語は、1835年、大坂の中津藩蔵屋敷にその幕を開けます。父・福澤百助は儒学の素養深い武士でしたが、その低い身分のために志を得ず、子の福澤諭吉が生まれた直後に失意のうちに世を去りました。故郷の中津へ戻った福澤諭吉が目の当たりにしたのは、人の価値が家格のみで決まる、厳格な門閥制度の壁でした。この理不尽な現実こそが、彼の生涯を貫く反骨精神と、「人間は生まれによって貴賎が決まるものではない」という信念の、原点となったのです。

 彼の人生を動かしたのは、時代の激動でした。1853年、黒船来航の衝撃は日本全土を駆け巡り、西洋の軍事技術への関心を一気に高めます。兄の勧めで、福澤諭吉は西洋砲術の基礎である蘭学を学ぶため、19歳で長崎へと旅立ちました。そこで初めて蘭学に触れ、世界の広大さを知った時、彼の眼前に、これまで知らなかった新しい地平が開かれたのです。封建社会の閉塞感からの脱出を渇望していた一人の若者は、学問こそが自らを解き放つ唯一の力であると確信しました。

 


第一章:適塾の熱気と西洋の衝撃

 

 知への渇望は、やがて福澤諭吉を当代随一の蘭学塾、大坂の適塾へと導きます。そこは、医者でありながら塾生の自主性を重んじ、身分を問わず才能を育んだ偉大な師、緒方洪庵の下に、全国の俊英が集う学問の道場でした。福澤諭吉は、医学の道で国家を救おうとした長與専斎ら生涯の友と出会い、共に未来を憂う志を分かち合います。緒方洪庵の「人のためにあれ」という無言の教えと、仲間との自由闊達な議論の中で、福澤諭吉は後の思想の根幹となる合理的な精神と実証主義の洗礼を受けたのです。

 その才能は瞬く間に頭角を現し、塾生の頂点である塾頭にまで登りつめ、江戸に蘭学塾を開くに至ります。その彼の元へ、適塾時代から信頼を寄せていた同志、同郷から招聘した小幡篤次郎らも協力し、新しい学問の拠点を支えました。しかし、まさにその絶頂期に、彼の世界観を根底から覆す試練が訪れます。1859年、開港したばかりの横浜の波止場は、混沌とした活気に満ちていました。適塾の塾頭として蘭学の頂点を極めたという自負は、しかし、そこで無残にも打ち砕かれます。看板に躍る文字も、異国の商人たちが交わす言葉も、彼が学んできたオランダ語ではなかったのです。

 積み上げてきた全てが瓦解するような絶望感の中で、福澤諭吉は、しかし、一つの厳しい真実を悟りました。オランダという小さな窓から世界を覗き見る時代は終わり、日本がこれから対峙すべきは、世界を動かす当事者たちの生きた言葉、すなわち英語そのものなのだ、と。彼は、過去の栄光に微塵も執着しませんでした。その日を境に、福澤諭吉は蘭学の蔵書を閉じ、ゼロから英学を独習するという、無謀とも思える新たな挑戦へとただ一人踏み出したのです。しかし、彼は孤独ではありませんでした。時代の変化を同じように感じ取っていた幕臣の尺振八箕作麟祥といった数少ない同志と共に、手探りで英語の辞書を紐解き、新しい時代の扉をこじ開けようとする日々が始まったのです。

 その情熱が、彼を本当の世界へと扉を開きます。1860年、軍艦奉行・勝海舟の進言もあり、彼は木村摂津守喜毅の従者として、咸臨丸に乗り込む機会を得ます。初めてアメリカの土を踏み、彼がそこで見たものは、壮麗な機械以上に、社会の仕組みそのものでした。「ワシントンの子孫は今何をしているのか」と尋ねても誰も知らず、個人の功績と家系とが切り離された社会に、彼は真の驚きを感じたのです。彼の関心は、単なる西洋の「モノ」や「技術」から、その根底にある「思想」や「精神」、すなわち「文明」そのものへと、大きく舵を切りました。

 


第二章:慶應義塾の産声と「学問のすゝめ」

 

 三度にわたる欧米歴訪を経た福澤諭吉は、日本の近代化を担う改革者として、誰もがその動向に注目する存在となっていました。幕府が崩壊し、明治新政府が樹立されると、彼の元には当然のように出仕の要請が舞い込みます。しかし、福澤諭吉の答えは、断固たる「否」でした。彼が選んだのは、いかなる権力にも属さず、在野の民として、教育と言論の力で日本の「精神」を根底から創り変えるという、長く、しかし確かな道でした。

 その決意を象徴する出来事が、1868年に訪れます。旧幕府軍と新政府軍が激突した上野戦争の砲声が、江戸の街に鳴り響く中、人々は固唾を飲んで戦の行方を見守っていました。しかし、福澤諭吉は、芝・新銭座にあった自らの私塾で、ただ一人、経済学の講義を続けていたのです。塾の運営は、同志である小幡篤次郎とその弟・小幡甚三郎が身を挺して支えました。政治の嵐が吹き荒れようとも、文明の光である学問の灯だけは、決して消してはならない。この日、彼と仲間たちが守り抜いた小さな塾は、年号を冠して「慶應義塾」と命名され、不屈の精神の礎が築かれました。

 そして1872年、福澤諭吉は、慶應義塾の理念を、そして日本の進むべき道を、一冊の書物に込めて世に問います。『学問のすゝめ』です。その冒頭の一文、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は、まさに新しい時代の到来を告げる号砲でした。個人の独立、実学の重要性、そして封建的身分制度の否定。その平明かつ力強い言葉は、旧弊な社会に生きてきた数百万の日本人の魂を揺さぶり、自らの力で未来を切り拓くことのできる「近代市民」としての自覚を呼び覚ましたのです。

 『学問のすゝめ』は、単なる書物ではありませんでした。それは、福澤諭吉が創り上げた慶應義塾という教育の場が、何を目的とし、どのような人間を育てるのかを、日本全国に示した建学の精神そのものでした。その精神は、早速、具体的な形で結実します。明治政府が近代的な学校制度を創るべく文部省を設立した際、福澤諭吉は、教え子である九鬼隆一渡辺洪基といった俊英たちを、国家の礎を築くため、次々と送り込みました。

 一人の若者が不遇の壁を破るために始めた学問は、今や、国家の未来を担う人材を育てる巨大な源流となったのです。福澤諭吉は、一個人の教育者から、日本の「精神的独立」を導く思想的支柱として、その不動の地位を確立しました。しかし、彼の挑戦は、まだ始まったばかりでした。


【後編】

「独立自尊」、慶應義塾の戦い

福澤諭吉の大学”始まり”物語

第三章:文明の精神と実践の拠点
 

 『学問のすゝめ』によって日本人の精神を揺り動かした福澤諭吉の挑戦は、教育という枠の中だけに留まるものではありませんでした。彼の視線は、個人の啓蒙から、社会全体の構造と精神を根底から創り変えることへと向かいました。1875年、主著『文明論之概略』を刊行。それは、単に西洋の文物や制度を紹介するだけの書物ではありませんでした。文明の進歩とは、技術や政治の形だけでなく、人々の精神、すなわち「人心」の進歩にこそ本質があるのだと、福澤諭吉は喝破したのです。それは、文明開化の熱に浮かれる社会に、本質を見極めるための、重く、そして深い問いを投げかけるものでした。

 この思想を実践する拠点こそ、三田の丘に立つ慶應義塾でした。福澤諭吉は、日本初の演説会堂「三田演説館」を建設します。政治談議が一部の為政者の密談に過ぎなかったこの国において、彼は、広く公衆に開かれた場で理をもって議論を戦わせる「演説(スピーチ)」こそ、近代市民社会の礎であると考えたのです。さらに、森有礼西周といった当代一流の知識人たちと日本初の学術団体「明六社」を結成し、国家の未来を論じ合いました。慶應義塾は、これらの活動の中心となり、新しい日本の言論と学問を創り出す、文明の実践工房そのものとなっていったのです。

 この時期の福澤諭吉は、まだ政府とも一定の協調関係を保ち、官民の調和の中から日本の近代化を模索していました。慶應義塾から多くの優れた人材が官界へ進んだのも、その表れでした。しかし、この穏やかな関係は、明治国家の進路を巡る巨大な亀裂によって、終わりを告げることになります。
 

第四章:「官」に抗する「民」の結束

 

 明治10年代、国会開設を求める自由民権運動の波が、熱狂と共に日本全国を席巻していました。福澤諭吉は、その目的である代議政治の実現には深く賛同しつつも、運動がしばしば感情的な政治闘争に陥り、社会の秩序をいたずらに乱すことを、冷静な目で危惧していました。彼が目指す真の民権とは、まず国民一人ひとりが学問によって知性と品性を高め、経済的に自立した先にこそ、達成されるべきものでした。「国の独立は、個人の独立にあり」。それが、彼の揺るぎない信念だったのです。

 この信念を具現化する、壮大な社会実験が始まります。1880年、福澤諭吉は日本初の実業家社交クラブ「交詢社」の創設を提唱しました。それは、薩長藩閥が牛耳る「官」の世界に対抗し、在野の知識人や実業家たちが、自らの力で情報を交換し、世の中のあり方を議論する、強力な「民」のネットワークでした。慶應義塾が育んだ「独立自尊」の精神を持つ人々が、学舎の壁を越えて社会に連携し、品位ある市民社会を創り上げる拠点。それは、福澤諭吉が描いた、政府に頼らない近代社会の、具体的な第一歩に他なりませんでした。

 しかし、この「民」の力の高まりと彼の思想は、藩閥政府の警戒心をいやが上にも高めることになったのです。その影響力に目を付けたのが、政府首脳の伊藤博文でした。伊藤博文は、福澤諭吉に巨額の資金を約束し、政府の意を汲む御用新聞の発行を、内々に依頼したのです。それは、在野の巨人を自らの陣営に取り込もうとする、巧みな一手でした。

 しかし、福澤諭吉にとって、ペンは権力に仕えるための道具では断じてありませんでした。いかなる立場にあろうとも不偏不党を貫くという信念のもと、彼はこの申し出を固辞します。この決裂が、藩閥政府と福澤諭吉との間の溝を、もはや修復不可能なものとしたのです。福澤諭吉とその盟友・大隈重信が進めるイギリス流の穏健な議会政治の構想は、政府の目には、体制を脅かす危険思想そのものと映っていました。政界には暗雲が垂れ込め、巨大な嵐が、刻一刻と迫っていました。

第五章:政変の嵐と独立のペン

 

 1881年、明治十四年の政変が勃発します。国会開設を巡る路線対立の末、大隈重信が政府から追放され、福澤諭吉と慶應義塾は、その黒幕として政府から完全に敵視される立場に追い込まれました。薩長藩閥の怒りの矛先は、いつ慶應義塾そのものに向けられてもおかしくない、まさに絶体絶命の危機でした。それは、福澤諭吉の生涯における、最大の苦境でした。

 この時、福澤諭吉は驚くべき行動に出ます。彼は、政府との政治闘争に身を投じるのではなく、ただ一点、自らの生涯を懸けた慶應義塾を、いかなる政治権力も未来永劫揺るがすことができない「不滅の社」とすることに、全心血を注いだのです。彼は、塾の規則を根本から改め、これまで福澤諭吉個人の所有物であった慶應義塾の資産と運営の一切を、信頼する門下生たちによる合議制の「社中」へと、その生前に、そして完全に委譲したのです。

 それは、福澤諭吉が自らの手で、慶應義塾を「私有の学塾」から、創設者である自分自身からすらも「独立」した、永遠に自律する教育共同体へと昇華させた瞬間でした。これこそが、彼が生涯をかけて説き続けた「独立自尊」の、最も気高く、そして自己犠牲的な実践だったのです。

 

 政変の嵐を乗り越え、慶應義塾という不滅の砦を築き上げた福澤諭吉。しかし、彼は守りに入ったのではありませんでした。彼は、この苦境の中からこそ、次なる闘いの一手を放ちます。1882年、彼は、かつて政府からの申し出を蹴ったその手で、今度は自らの資金と信念に基づき、日刊新聞『時事新報』を創刊したのです。

 慶應義塾が人材を育てる『学校』であるならば、『時事新報』は社会そのものを導く『もう一つの学校』でした。政府からの干渉を一切受け付けない「不偏不党」を掲げ、ペンを以て国家と対峙する。一人の教育家の挑戦は、ここに、日本の進路を左右する巨大な言論の光を放つに至ったのです。

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