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ダイガクコトハジメ - 大隈重信 - 大学の始まり物語

大隈重信

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大隈重信

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  • 大隈重信|大学事始「大学の 始まり”物語。」

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
【前編】 約2,000文字(読了目安:5分程度)​

【後編】 約2,000文字(読了目安:5分程度)​

[前編]

「早稲田の源流、長崎に始まる」

大隈重信の大学”始まり”物語

序章 佐賀の神童、世界と出会う

 大隈重信の物語は1838年、近代化の息吹が静かに満ちる肥前国佐賀にその幕を開けます。佐賀藩校・弘道館においてその神童ぶりは早くから知られていました。しかし彼の旺盛すぎる知的好奇心と旧弊な権威への反骨精神は、朱子学を中心とする画一的な教育の枠には到底収まりきりません。教官と激しく論争し改革を訴えた末に退学処分となります。この若き日の挫折こそ、生涯を貫く「進取の精神」の最初の狼煙でした。

 旧来の学問と決別した大隈重信が次に向かったのは実用的な蘭学、そして時代の潮流である英学でした。運命の扉が開かれたのは日本の玄関口・長崎。そこで彼はオランダ人宣教師グイド・フルベッキと出会います。フルベッキから学んだのは、単なる語学ではありませんでした。教材として用いられた『アメリカ合衆国憲法』、そこに記された個人の権利、そして議会制民主主義という社会を根底から設計し直すための壮大な「思想」。大隈重信は雷に打たれたような衝撃を受けたのです。日本の未来を創るためには、新しい知識と思想を身につけた全く新しい人材が必要である。彼の胸に「教育による国創り」という、生涯を懸けたテーマが宿った瞬間でした。フルベッキを校長に迎え、佐賀藩英学校・致遠館を創設。自身も教員となり学校運営を担ったこの経験は、早稲田大学の源流とも言えます。

第一章 近代国家の設計者たち
 

 幕府崩壊、役人が去って混迷を極める長崎にあって、藩命により赴任。大隈重信は仮政府を差配、イギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮するなど、外国人との訴訟を見事に処理します。

 「天下の名士を長崎においておくのは良くない」

 大隈重信の類まれなる行政手腕を認めた井上馨が、木戸孝允に新政府登用を推薦。青雲の志を胸に、国家的な大舞台へと躍り出ます。1869年、大蔵大輔に就任。貨幣制度を「両」から「円」へと転換させる改革を断行、日本の経済の礎を築きます。巨大な権限を持つ大蔵省を率いた彼は、殖産興業政策を強力に推進しました。

 この権力の中枢で、二人の重要な同志を得ます。一人は同じく日本の近代化を夢見る長州の俊英、伊藤博文。そしてもう一人は卓越した実務能力を見込んで大蔵省に招き入れた、民間の実業家、渋沢栄一でした。大隈重信の築地の邸宅には藩閥の垣根を越えた若き才能たちが夜ごと集い、新国家の設計図を熱く語り合いました。世に言う、「築地梁山泊」。官と民が一体となり日本の未来を創造しようとした、熱気に満ちた時代でした。

 彼らが語り合ったのは鉄道や電信といった目に見えるインフラだけではありませんでした。国家百年の計は人を育てることにあり。新しい日本を担う人材をいかに育成すべきか、官民それぞれの立場から教育のあり方についても熱く議論が交わされたのです。この時の議論がやがて伊藤博文の「帝国大学構想」、そして大隈重信の在野からの「早稲田の挑戦」へと、異なる形で結実していくのでした。

 

第二章 孤立の果て、小野梓との出会い

 

 しかし大隈重信の急進的な改革と、その強大な権力は次第に政府内で軋轢を生み始めます。特に内治の安定を最優先する薩摩の巨星・大久保利通とは、国家財政の運営を巡りその距離感を広げていきました。かつての盟友であった伊藤博文もまた巧みに大久保利通へと接近し、大隈重信は徐々に政府内で孤立の色を深めていくのです。

 政権中枢における彼の孤立が決定的となったのが、1875年の「大阪会議」でした。明治六年の政変で下野した木戸孝允や板垣退助を政府に復帰させるという国家の進路を決めるこの最重要会議に、参議であった大隈重信は意図的にその席から外されたのです。それは大久保利通伊藤博文らによる彼の政治的影響力を削ぐための、明確な一手でした。

 権力の頂点から徐々にその影響力を失っていく苦悩の日々。大久保利通の暗殺後も政府の実権を握った伊藤博文との権力闘争は続きました。政治的に追い詰められていく中、それでも大隈重信は自らの信念を諦めません。1880年、彼は起死回生の一手として国家財政の透明性を確保するという大義名分を掲げ、独立機関「会計検査院」の設立を建議し実現させます。

 そしてこの自らが創った組織で、大隈重信は運命の出会いを果たしました。その男の名は、小野梓。土佐の宿毛に生まれ、苦学の末にアメリカ・イギリスへ留学。西洋の立憲政治思想の神髄をその身に吸収した、類稀なる俊英でした。会計検査院の検査官として働く小野梓の明晰な頭脳と日本の未来を憂う熱い情熱に、大隈重信は瞬時に惹きつけられます。彼は自らが構想するイギリス流の議会政治国家の、強固な理論的支柱をこの若き才能の中に見出しました。

 政権の中枢から弾き出され孤立を深めていた改革者の元に、一人の若き学究が現れた。それはやがて来る最大の試練を共に乗り越え、「学問の独立」という新たな理想国家を築くための、運命の出会いでした。

 

[後編]

​「学問の独立、東京専門学校誕生」

大隈重信の大学”始まり”物語

第三章 明治十四年の政変、教育への転換

 政権中枢で孤立を深めていく中、大隈重信の思想は従来の枠を超えた政治的・言論的活動へと向かいます。この頃に福澤諭吉が発案、慶應義塾を中心に主宰する交詢社(こうじゅんしゃ)は、在野の知識人が集い自由民権運動の言論的拠点の一つとなっていました。大隈重信もこの場に集う人々と交流、日本の未来を憂う志を共有し新しい政治のあり方を模索していきました。

 運命の歯車は思わぬ方向へと回転します。立憲国家樹立を目指す中で、大隈重信は憲法制定の時期を巡り政府内で孤立を深めます。特に、盟友であったはずの伊藤博文や井上馨らとの軋轢は決定的なものに。彼らが「漸進主義」を掲げて時間をかけた国家形成を目指す一方、大隈重信は「急進的」なイギリス流の議会政治導入を主張しました。その溝は埋めがたく、ついに1881年、「明治十四年の政変」を迎えます。開拓使官有物払い下げ事件での対応を造反だと見做され、大隈重信は政府から追放されるのでした。権力の中心から退けられた大隈重信は、自由民権運動を背景に来るべき国会開設に備えるべく、新たな政治勢力として立憲改進党を組織しました。

 同時期に、大隈重信と共に官より下野した小野梓は、母校である東京大学の学生を中心に政治結社「鷗渡会(おうとかい)」を設立。そのメンバーには高田早苗天野為之市島謙吉坪内逍遥といった、後に早稲田の礎となる若き知性が集っていました。小野梓率いる鷗渡会も立憲改進党に合流します。

 ここで、大隈重信が真に「教育者」としての道を歩む決定的な出来事が生じます。婿養子である大隈英麿に理学学校の設立計画を持ち掛けられまた大隈重信は、小野梓ら鷗渡会メンバーに学校設立を相談します。理学学校ではなく、来るべき立憲政治の担い手、指導者を養成するための学校を設立すべきとの構想が固まります。こうして、後に早稲田大学となる東京専門学校が誕生するに至ります。
 


第四章 「学問の独立」、東京専門学校の戦い
 

 1882年10月21日、「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を理念に掲げて、東京専門学校が創設されました。大隈重信が目指した教育は、単なる知識の伝授ではありませんでした。自らもフルベッキから学んだように、新しい時代を切り拓く思想とそれを実践する能力を持った人材の育成が図られます。法律・経済・政治といった実学を重視、来るべき議会政治の時代を担う人材の育成を目指しました。政府で果たせなかった政治的理想を、教育という手段を通して実現する。大隈重信の挑戦がここから始まったのです。

 しかし、その船出は順風満帆ではありませんでした。東京専門学校は、東京大学の学生が中心であったこと、そして自由民権運動の牙城と目された立憲改進党の学校と見做されたことから、明治新政府から厳しい監視の目を向けられます。創設早々に廃校の危機に直面するのです。

 

 この困難な時期、大隈重信は政治的影響力を駆使して学校を守り、小野梓ら鷗渡会メンバーが学校運営の根幹を担いました。後に早稲田四尊と称される高田早苗天野為之市島謙吉坪内逍遥らが自ら教鞭を握り、学生を導きました。大隈重信が政治的に追い詰められながらも諦めなかった信念と、小野梓鷗渡会メンバーの献身がこの新しい学校を存続させたのです。
 

 しかし、大隈重信と小野梓の二人三脚は唐突に終わりを迎えました。1886年、小野梓は志半ばにして若くして夭折。かけがえのない片腕を失う、痛恨の出来事でした。しかし、東京専門学校の「学問の独立」の志は揺らぎません。小野梓代わり学校運営の中心を担ったのは、鷗渡会以来の盟友・高田早苗でした。大隈重信は二度の内閣総理大臣を務めるなど政治の世界で多忙を極める傍ら、自ら私財を投じて高田早苗との二人三脚で学校の発展に尽力しました。
 


終章 国家と教育、そして不朽の遺産

 大隈重信の晩年、東京専門学校で「早稲田騒動」と呼ばれる内紛が発生しました。これは、第二次大隈重信内閣の文部大臣を辞任した高田早苗が学長復帰を目指す中で、当時の現学長であった天野為之らと対立したことに端を発しました。この騒動は、学内の権力争いだけでなく、学生や世論をも巻き込む一大騒乱へと発展します。この騒動は学校創設以来掲げてきた「学問の独立」の精神が、組織として成長する中で直面した「自立への試練」となりました。この苦難を乗り越えることで早稲田大学はより強固な自治の精神を育み、「自由な学問の追求」という理念を確固たるものにしていきました。

 1922年1月10日、大隈重信は83歳でその生涯を閉じます。彼の死に際して、前例のない国民葬が日比谷公園にて執り行われました。約30万人の一般市民が参列、彼が明治維新において日本の近代化に多大な貢献を果たし、また政党を率いて国家元首として日本を導いた政治家としての偉業。東京専門学校を創設、教育によって国家の未来を切り開いた開拓者としての偉業をたたえました。大隈重信が残した早稲田大学は、「学問の独立」の精神を今に伝え、日本の高等教育の多様性と発展に貢献し続けています。

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