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ダイガクコトハジメ - 中島永元

 

中島永元

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中島永元

なかじまながもと

1844(天保15/弘化元)年8月29日(旧暦・7月16日) - 1922(大正11)年11月10日

佐賀藩校・蕃学稽古所、大学校中助教・大寮長、大学権少丞、文部省文部権少丞・文部権大丞・文部権大書記官・参事官、大学分校校長、第三高等中学校校長、元老院議官、錦鶏間祗候、貴族院議員、岩倉遣欧使節団

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  • 1844(天保15/弘化元)年8月29日(旧暦・7月16日) 中島永元(1歳)、佐賀鬼丸小路に佐賀藩士・中島永遠の長男として生まれる。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

1853(嘉永6)年 安政の改革

黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所長崎海軍伝習所を設置。

  • 1864(文久4/元治元)年頃 大隈重信(27歳)鍋島直正より副島種臣と共に長崎での洋学研究を命じられる。長崎の幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)にて、来日直後のフルベッキに英語を学ぶ。新約聖書とアメリカ合衆国憲法を教材に英語学習、あわせてキリスト教と近代民主主義の精神を学ぶ。うち、アメリカ合衆国憲法に記された基本的人権と議会制民主主義の思想は、民主主義思想の根幹となり、生涯にわたる決定的な影響となる。長崎遊学時代に後藤象二郎・坂本竜馬・岩崎弥太郎らと親交を持つ。

  • 1865(元治2/慶応元)年 中島永元(22歳)、副島種臣・大隈重信らと共に長崎遊学。幕府英学所・済美館にて蘭学研究。傍らで、宣教師グイド・フルベッキより英語を学ぶ。

  • 1867(慶応3)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(53歳)、佐賀藩諫早家の屋敷内に、英学校・致遠館設立。翌年1868(慶応4)年に副島種臣・大隈重信の手引きにより幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)で教えていたオランダ人宣教師フルベッキが校長として招かれる。新約聖書とアメリカ合衆国憲法をテキストとし、欧米の政治制度・法制度の講義や議論が盛んに行われる。副島種臣・大隈重信もフルベッキに学びながら、教頭格として教壇に立つ。佐賀藩のみならず広く他藩の人材も在学。勝海舟の子・勝小鹿、岩倉具視の子・岩倉具定・岩倉具経、服部一三相良知安ほか100余名の学生を擁する。1869(明治2)年4月、フルベッキが明治新政府より招かれ上京、大学南校(現・東京大学)教師に。閉校。

  • 1867(慶応3)年 中島永元(24歳)、長崎に新設された佐賀藩校・蕃学稽古所(後に、致遠館)教官に抜擢されるも、戊辰戦争が起こると職を辞し、国事奔走。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想

明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。

1869(明治2)年 版籍奉還

諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立

明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校医学校を分局とする大学校東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。

  • 1869(明治2)年8月 中島永元(26歳)、明治新政府に出仕。大学校中助教兼中寮長に。ほどなく、大寮長に。

  • 1869(明治2)年 何礼之(30歳)大阪洋学校創立を発議・設立。督務に。教鞭を執る傍ら、『経済便蒙』・『西洋法制』など訳出。

  • 1870(明治3)年6月 中島永元(27歳)、大学権少丞に。大阪洋学校の事務取扱を命じられる。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

  • 1871(明治4)年 中島永元(28歳)、文部省文部権少丞に。南校事務取扱。

  1. 1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6)年 田中不二麿(27-29歳)岩倉遣欧使節団文部省理事官として随行。アメリカ・アマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手に、欧米の学校教育を見聞・調査。また、教育顧問の日本招聘の任務も帯びる。帰国後、欧米教育制度を紹介した『理事功程』15巻を著す。

  • 1871(明治4)年11月 - 1873(明治6)年3月 中島永元(28-30歳)、岩倉遣欧使節団理事官・田中不二麿に随行、米国滞在後に英国へ。教育調査を担当。

  • 1872(明治5)年 森有礼(26歳)、米国中弁務使、ついで米国代理公使に昇任。

  • 1872(明治5)年2月3日 森有礼(26歳)日本国駐米外交官として、ラトガース・カレッジの学長ウイリアム・キャンベルに教育問題を質問状。回答書をダビット・モルレーが執筆。11月25日、ワシントンで『Religious Freedom in Japan』(『日本における宗教の自由』)発表。翌年、ダビット・モルレーの返書を『Education in Japan』(『日本の教育』)として刊行。

  • 1872(明治5)年 田中不二麿(28歳)、ワシントン駐在の日本国外交官・森有礼がラトガース・カレッジの学長ウイリアム・キャンベルに教育問題を質問状。この長文回答書をダビット・モルレーが執筆。この文書が教育顧問を探していた木戸孝允・田中不二麿の目にとまる。モルレーの招聘を検討。報酬月額600ドル、3年間の予定で契約が交わされることに。翌1873(明治6)年6月に来日。文部省学監として諸藩の教育事務に対する助言・建言を行う。省務を統括していた田中不二麿を助ける。

  • 1873(明治6)年 中島永元(30歳)、帰国。文部省五等出仕。文部権大丞、文部権大書記官に。

  • 1885(明治18)年12月 折田彦市(37歳)森有礼の文部大臣就任による官制改革・人事刷新に伴い、文部省に呼び戻される。文部権大書記官・学務局次長心得に。学校教育制度改革、諸学校令制定作業に加わる。翌年3月、学務局長に。

  • 1885(明治18)年12月 中島永元(42歳)、新設間もない大阪の大学分校校長に。

1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令

教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。​​

1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学

高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。帝国大学初代総長に渡辺洪基を勅任。

  • 1886(明治19)年、学校令により、「高等中学校」の制度が成立。東京大学予備門は、第一高等中学校に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置することが定められる。第三高等中学校(京都)・山口高等中学校・第二高等中学校(仙台)・第四高等中学校(金沢)・第五高等中学校(熊本)・鹿児島高等中学造士館が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。第一高等中学校だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が帝国大学へ進学する制度に。

  • 1886(明治19)年、中学校令により、大学分校第三高等中学校に改組。高等中学校の設置区域決定、京都移転。新校地は愛宕郡吉田村に。

  • 1888(明治21)年6月 中島永元(45歳)、元老院議官に。

  • 1890(明治23)年10月 中島永元(47歳)、錦鶏間祗候に。

  • 1891(明治24)年12月 中島永元(48歳)、貴族院議員に勅選。

  • 1922(大正11)年11月10日 中島永元(79歳)、死去。享年79歳。

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