ダイガクコトハジメ - 中井履軒
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中井履軒
なかいりけん
1732(享保17)年6月18日(旧暦・5月26日) - 1817(文化14)年4月1日(旧暦・2月15日)
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1724(享保9)年5月 三宅石庵(60歳)、門弟であった大坂の有力町人・五同志は中井甃庵とはかり、尼崎町一丁目北側(現・今橋三丁目)の道明寺屋吉左衛門(富永芳春)隠宅に懐徳堂(大阪大学文系学部の源流)を創立。初代学主に迎えられ、初期懐徳堂の基礎を築く。朱子学を中心とする中国の思想を基礎としながらも諸学の良い点は何でも折衷して取り入りる学風より、「鵺学問」とも称される。
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1739(元文4)年頃 中井竹山(10歳)、弟・中井履軒と共に、懐徳堂の助講・五井蘭洲に師事。五井蘭洲は和漢の学に通じ、その教えは経学・漢学以外に文章・詩歌・神道・仏教・史学・経済・兵学などに及ぶ。兄弟に与えた影響は大きく、後に懐徳堂学派と呼ばれるほど独自の学風が培われる。
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1758(宝暦8)年7月21日(旧暦6月17日) 中井甃庵(66歳)、死去。享年66歳。
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中井履軒、上方を代表する学者として、兄・中井竹山と並び称される。古典・経学の注釈の第一人者であり、また天文学・解剖学など西洋科学にも通じる。西洋天文学者・麻田剛立を寄寓させ、多くを学ぶ。天文学説としては、ティコ・ブラーエの宇宙モデルを支持。懐徳堂学派で最大の学問的業績を残す。懐徳堂文人の特色とされる合理的・近代的な学風が確立される。
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1782(天明2)年5月16日 中井竹山(53歳)、大坂大火、懐徳堂が全焼。再建にあたり、念願の官学化を幕府に陳情するため江戸へ。老中・松平定信に会う事出来ず、願書を奉行所に提出するに留まる。幕府からの再建補助は300両という金額に抑えられ、官学化どころか、学舎再建にも窮する。門人らの寄贈により懐徳堂の再建が叶う。
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1788(天明8)年6月 中井竹山(59歳)、懐徳堂(大阪大学文系学部の源流)は父・中井甃庵の代に官許学問所となっていたが、さらに昌平坂学問所(昌平黌)が官立となったように、官立学問所を目指した。江戸幕府の老中就任すぐの松平定信が大阪に。引見、3日と短い滞在期間の中で、政治・経済・学問などについて諮問を受ける。後に『草茅危言』を著作、献上。この引見から名声が全国に拡がり、来阪する諸大名や旗本らの招きが増える。懐徳堂に諸藩士や学者の訪問が相次ぐ。大坂城代・堀田正順との関係も緊密に、召し抱えの儒者として大阪城内に自由な出入りが許され、講義をするように。
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中井竹山、大阪の学問所・懐徳堂(大阪大学文系学部の源流)第4代学主として、「寛政の三博士」と呼ばれる柴野栗山・尾藤二洲・古賀精里と親交。江戸幕府老中・松平定信が進める寛政の改革に際し、相互に影響を与える。
1790(寛政2)年7月6日(旧暦・5月24日) 寛政異学の禁
江戸幕府老中・松平定信による教学政策。8代将軍・徳川吉宗が理念的な朱子学よりも実学を重んじたこと、古学や折衷学派などが流行したこともあり、朱子学が不振。湯島聖堂の廃止も検討される状況にあった。天明の大飢饉で低下した幕府の威信を取り戻すため、松平定信は儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させるべく学問統制。当時流行していた古文辞学や古学について、風俗を乱すものとして規制。学問所(後に昌平坂学問所)をはじめ、幕府教育機関における朱子学以外の異学の講義を禁じた。
林家の私塾であった学問所を林家から切り離し、聖堂学規や職制を制定、幕府直轄の教育機関とする。1792(寛政4)年9月、湯島聖堂仰高門内に講舎落成。旗本・家人を問わず、幕臣とその子弟の学問吟味を行う。
朱子学は、南宋の朱熹によって構築された儒教の新しい学問体系(新儒教)である。万物は宇宙の理想的なあり方を示す善や真の概念「理」と現実世界の諸現象「気」から成るとし(理気二元論)、「理」である理性・道徳により、「気」としての現実を支配することを理想とした。江戸幕府が朱子学を正学(官学)と定めた背景には、政権の安定と支配層の再生産について、「理」を四民の身分秩序にあると定義(上下定分の理)し、身分制度を知的・理念的側面から支えたい思惑があった。武士が学ぶべき学問として、思想体系・教育環境の整備を図る。一方で現実の「気」に重きを置き、実践を重視(知行合一)した陽明学は反体制的な行動を誘引する恐れがある学問とされ、日本だけでなく東アジアの多くの体制下で異端・異教として扱われた。
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1791(寛政3)年 尾藤二洲(47歳)、幕府からの招聘を受け、昌平坂学問所(昌平黌)教官に。
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1796(寛政8)年 古賀精里(47歳)、幕府からの招聘を受け、昌平坂学問所(昌平黌)教官に。
1797(寛政9)年 昌平坂学問所(昌平黌)設立
学舎の敷地拡張、昌平坂学問所(昌平黌)設立。外部より尾藤二洲・古賀精里を教授として招聘。以後、幕府直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可される。柴野栗山・尾藤二洲・古賀精里の3名は「寛政の三博士」と呼ばれる。
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中井竹山、尾藤二洲より昌平坂学問所(昌平黌)の史局総裁として招聘されるも、病気を理由に固辞。その後も薩摩藩、加賀藩、熊本藩から招聘されるも、すべて固辞。懐徳堂を離れることはなかった。
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中井履軒、経学研究者として『論語雕題』・『七経雕題』・『七経雕題略』ほか古典注釈。『七経逢原』全三十三巻として集大成される。『中庸逢原』において、『中庸』にとりわけ高い評価を与える。
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中井履軒、游芸の著書『天教或問』を通じ、ヨーロッパの学問に目を拓く。同書を解説、『天教或問雕題』著作、天体図も作成。
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中井履軒、天文学以外の自然科学方面では、反古紙を使い中国の昔の文人の衣装・深衣を復元作製、『深衣図解』著作。博物図譜『左九羅帖』、解剖図『越俎弄筆』、顕微鏡観察記録『顕微鏡記』など著作。
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中井履軒、自らを架空の理想国家・華胥国の王に擬し、国家の統治のあり方を論じた『華胥国物語』といった著作も。
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1817(文化14)年 中井履軒(86歳)、死去。享年86歳。後年、従四位を追贈される。
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