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黒田清輝
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年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)
「光の革新者、近代洋画の父」
黒田清輝の大学“始まり”物語
序章 法律家への道、芸術の都パリへ
幕末明治維新前夜、1866年。薩摩藩士の家に生まれた黒田清輝は、伯父である子爵・黒田清綱の養子に。将来を嘱望されるエリートとして育てられた彼は、東京外国語学校に入学。当時の多くの若き俊英たちと同じく、新しい国家制度を築く法律家を目指してフランス語ならびにフランス法を学びます。
1884年、フランス法を学ぶことを目的にフランスの首都パリへと留学。しかし、この芸術の都が黒田清輝の運命を根底から覆すことになります。法律の勉強の傍ら、彼が触れたのは、ルーヴル美術館の壮麗なコレクションであり、サロンで喝采を浴びる新しい絵画の息吹でした。西洋画家・山本芳翠や美術商・林忠正といった人々との交流の中で、彼の心は法学書から西洋画、キャンバスへと急速に傾いていきました。
第一章 光の洗礼と、画家への転身
1886年、フランスの地にて黒田清輝は法律家の道を断念し、西洋画家として生きることを決意します。それは約束された将来を捨て、未知の世界へと漕ぎ出す極めて大きな決断でした。盟友となる久米桂一郎と共に、当時のフランス画壇の重鎮、ラファエル・コランの門を叩きます。
コランの下で彼が学んだのは、アカデミックな写実表現に印象派の明るい色彩感覚を取り入れた、当時最新の画風でした。戸外の光を画面に取り込むそのスタイルは「外光派( plein-air )」と呼ばれ、その光の洗礼を全身で浴びることになります。10年近くに及ぶ留学生活で、黒田清輝はその技術を完全に自らのものとし、パリのサロンで入選を果たすほどの評価を得ました。1893年、彼が日本に持ち帰ったのは単なる絵画技術ではありませんでした。それは、それまでの日本の洋画にはなかった、明るい「光」そのものだったのです。
第二章 新風と摩擦、アカデミズムの父へ
黒田清輝が帰国した当時。日本の西洋画壇は、工部省が設立した工部美術学校の流れを汲む西洋画家たちが支配していました。イタリア美術を基礎とし、暗い色調で重厚な画風を特徴とする彼らは、「旧派」または「脂派(やには)」と呼ばれていました。その中心組織が、松岡壽や浅井忠らが率いる明治美術会です。黒田清輝が持ち帰った明るい外光表現は、この旧派の牙城に対する革命的な挑戦状でひた。
黒田清輝は明治美術会に入会、その内部からの改革を試みます。しかし、彼の新風は摩擦と論争の火種となりました。1895年、彼が内国勧業博覧会に出品した裸体画『朝妝』は、芸術表現と社会の道徳観を巡る一大論争を巻き起こします。そして旧派との芸術上の路線対立が決定的となりました。1896年、黒田清輝は明治美術会を脱退。久米桂一郎ら志を同じくする画家たちと、新進の西洋画団体・白馬会を結成します。ここに、日本の西洋画壇は旧派と新派に完全に分裂。激しい主導権争いの時代へと突入します。
そして、黒田清輝の挑戦はついに官学の牙城を動かします。同年、それまで岡倉天心の指導のもとで日本画中心主義を貫いていた東京美術学校に、待望の西洋画科が新設されました。黒田清輝がその主任教授に就任、本格的なフランス式のアカデミズム教育を導入し、「日本の洋画アカデミズムの父」としての揺るぎない地位を確立します。
第三章 文部省美術展覧会設立、美術界の頂点へ
東京美術学校の教授として、青木繁や藤島武二といった次代を担う数多くの才能を育て上げました。黒田清輝の功績は、教育の現場だけに留まりません。養父の爵位を継ぎ貴族院議員となると、政治家・美術行政家として国家の美術政策そのものに深く関与していきます。彼の建議によって官設の文部省美術展覧会(文展)が設立され、後には森鴎外の後を継いで帝国美術院の第2代院長に就任。名実ともに、日本美術界の頂点に立ちました。
第二の故郷、フランス本国でも黒田清輝の功績は高く評価されます。1923年にはレジオンドヌール勲章コマンドゥールを受勲するなど、数多の栄誉に輝きました。彼が遺した作品、創り上げた教育の礎は、その後の日本の西洋画の揺るぎない道標となったのでした。