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ダイガクコトハジメ - 渋沢栄一 - 大学の始まり物語

渋沢栄一
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渋沢栄一

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約3,000文字(読了目安:5-10分程度)​

「論語と算盤が拓いた建学」

渋沢栄一の大学”始まり”物語

序章 豪農の知恵と西洋文明の衝撃

 19世紀半ば、200年以上続いた江戸幕府の鎖国体制が大きく揺らぎ始めていた。1840(天保11)年3月、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)に、豪農・渋沢市郎右衛門元助の長男として渋沢栄一が生まれる。家業である藍玉の製造販売や養蚕、農作物の生産の中で育ち、14歳になると栄一は単身で藍葉の仕入れに出向く。現実の経済システムと合理的な計算を肌で吸収する、実務家としての原点である。


 同じ頃1853(嘉永6)年7月、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航。国家存亡の危機を前に、若き栄一も尊皇攘夷の激流に身を投じていく。倒幕計画を企てるも挫折、一転して1864(元治元)年、25歳で徳川家・一橋慶喜に仕えることとなる。


 彼の思想を根底から覆したのは、1867(慶応3)年のヨーロッパ渡航であった。28歳の栄一は、将軍名代・徳川昭武の随員としてパリ万国博覧会を視察する。


 そこで彼が目撃したのは、巨大な工場や鉄道という圧倒的な物質文明だけではない。軍人や政治家と同等、あるいはそれ以上に実業家が社会的に尊敬を集め、国家の発展を牽引している姿であった。日本の「官尊民卑」とは対極の世界。西洋の繁栄を支えているのは、近代的な会社制度と、高度な商業の知識および道徳を備えた人材であることを痛烈に悟る。
 

第一章 官尊民卑の壁と商法講習所の創立

 1868(明治元)年、明治新政府が樹立。帰国した栄一は静岡での活動を経て、翌1869(明治2)年に大隈重信の強い説得を受けて大蔵省に入省する。度量衡の制定や国立銀行条例の立案など、近代国家の経済の骨格作りに奔走。しかし1873(明治6)年、34歳の彼は予算編成を巡って大久保利通らと激しく対立、井上馨と共に大蔵省を退官する。官の世界に見切りをつけ、自らの足で実業界に身を投じ、第一国立銀行を開業する。


 実業の世界を切り拓く中、彼はある深刻な壁に直面する。近代的な会社制度を動かすための「人材」の決定的な欠如である。商売は卑しいものという江戸時代からの身分意識が根強く残り、優秀な若者はみな立身出世を求めて官僚を目指す。1875(明治8)年、36歳の栄一は、商業教育の必要性を唱える森有礼の熱意に共鳴、私塾「商法講習所」の創立を支援する。後の一橋大学の源流である。
 同年、森が清国公使として離日すると、栄一は経営委員としてこの私塾を支えることとなる。翌年、矢野二郎が所長に就任。官に頼らず、民間の力で世界に通じる商業人材を育てるという、終わりのない建学への泥臭い挑戦が幕を開けた。

 

第二章 廃校の危機と、実学を守り抜く闘い

 商法講習所の歩みは、常に存亡の危機と隣り合わせであった。管轄が東京会議所から東京府へと移管される中、折からの財政難により何度も廃校論が持ち上がる。1881(明治14)年、42歳の栄一を最大の試練が襲う。東京府会が経費の支出を完全に拒否、商法講習所の廃止を決議したのである。


 教育の灯を消してはならない。栄一は直ちに東京府知事や農商務卿に働きかけ、文部省辻新次らとも連携して農商務省の補助を引き出し、辛くも存続を勝ち取る。同年、彼は東京大学の学生に蔓延する実業軽視の風潮を深く嘆き、総理・加藤弘之に直訴。自ら文学部講師として教壇に立ち、日本の最高学府の学生たちに向けて直接「日本財政論」を講じた。官界偏重のエリート意識を打ち砕き、実学の重要性を説く教育者としての戦いである。

 商法講習所はその後、東京商業学校を経て、1887(明治20)年に日本初の官立商業学校である「高等商業学校」へと改組される。しかし1908(明治41)年、文部省帝国大学への吸収と同校専攻部の廃止を決定する「申酉事件」が勃発。単独での大学昇格を目指す学生たちは猛反発し、総退学を表明する異常事態となる。この時、69歳となっていた栄一が事態の調停に乗り出す。財界の重鎮としての力と思いを結集、文部省を翻意させて専攻部の存続を決定させた。幾多の困難を乗り越え、実業界の父が身を呈して商業の最高学府を守り抜いた瞬間である。
第三章 論語と算盤、実学の殿堂の完成

 

 1916(大正5)年、77歳で実業界の第一線を退いた栄一は、『論語と算盤』を刊行する。道徳(論語)と経済(算盤)は一致すべきものであり、個人の利益追求と社会への奉仕は両立するという、究極の実学思想の提示である。


 そして1920(大正9)年、81歳の栄一の眼前で、高等商業学校はついに「東京商科大学」へと昇格を果たす。私塾の立ち上げから45年。幾度もの廃校の危機と官僚組織の圧力に耐え抜き、実業界を牽引する高等教育機関が完全に確立したのである。


 彼の教育への執念は、商業分野のみにとどまらなかった。成瀬仁蔵が創立した日本女子大学校や、伊藤博文らと進めた東京女学館、さらには工手学校(現・工学院大学)など、新しい時代に必要な多様な人材育成機関に惜しみなく資金と情熱を注ぎ続けた。


 1931(昭和6)年、栄一は92歳でこの世を去る。生涯で500以上の企業設立に関わった「日本の資本主義の父」。しかし、彼が真に後世に残そうとしたのは、企業という器ではなく、それを動かす「人間」であった。彼が守り抜いた商法講習所の灯は、一橋大学として今も実学の最高峰に位置している。論語と算盤を胸に、国家と社会のために汗を流す人材を育てる。一人の実業家の泥臭い建学への執念は、日本の近代を支える強靭な屋台骨として、現代のすべての学舎の根底で静かに光を放ち続けている。

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