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岡倉覚三(岡倉天心)
年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)
「近代日本美術の設計者」
岡倉天心の大学“始まり”物語
序章 横浜の国際人、フェノロサとの出会い
明治維新前夜、1863年。岡倉天心は開港地・横浜の地に生まれます。福井藩の貿易商の家に育ち、訪れる外国人を通じて幼少期から英語に慣れ親しんできました。ジェームス・ハミルトン・バラに英語を学び、高島嘉右衛門の語学私塾・藍謝堂(高島学校)に入学。英語と西洋文化に日常的に触れることで、国際感覚を身に着けていきます。明治新政府が富国強兵を掲げて日本の近代化に邁進、西洋の制度や技術・文化を至上とする中で。彼は古来日本の文化や美術を旧時代の遺物として軽んじる時代の風潮に対して違和感を感じるに至ります。これが、後に岡倉天心が日本美術を再発見し、日本の精神文化を世界に問い直す源泉となるのです。
1873年、官立の東京外国語学校に入学。改称され教授言語が英語に統一された東京開成学校(後に東京大学)にて、運命を決定づける出会いを果たします。英語が得意であったことより、アメリカ人美術史家アーネスト・フェノロサの助手に任命されたのでした。東洋の魂を持ち、日本美術の再発見を提唱する国際人と共に。二人は忘れ去られようとしていた日本の古美術を調査し、日本中を巡ります。奈良・法隆寺の夢殿の扉を数百年ぶりに開け、秘仏・救世観音像を発見。この感動が、岡倉天心に自国文化の偉大さを強烈に刻み付けました。西洋の模倣ではなく、日本独自の美の価値を再発見し、守り育てなければならない。この時の決意が、彼の生涯を貫く闘いの始まりとなります。
第一章 東京美術学校の創設
当時、明治政府は殖産興業政策の一環として、美術を「産業技術」と捉えていました。その象徴となるのが、1876年に工学寮工学校(後に工部大学校)内に設置された官立の工部美術学校設立でした。ルネサンス美術の中心地であるイタリアより教師を招聘、純粋な西洋美術教育を教授。日本の伝統美術が顧みられることはありませんでした。大学卒業後に文部省官僚となった岡倉天心は、この流れに抗い、日本独自の美術教育の必要性を説きます。その才能と情熱をいち早く見出したのが、当時の文部省で絶大な権勢を誇っていた九鬼隆一でした。九鬼隆一は岡倉天心の強力な後ろ盾となり、彼の理想を実現するための道を拓きます。
欧米の美術教育を視察する旅を経た岡倉天心の構想は、文部省内に設置された「図画取調掛」という専門の調査委員会で具体的な形を取り始めます。岡倉天心はフェノロサと共にその中心委員として、新たな日本美術学校の設立を政府に働きかけます。九鬼隆一の政治的支援も背景に、1889年2月、ついに東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)が開校します。当初この学校は西洋画科を置かず、日本画・木彫・金工・漆工といった日本の伝統美術の教育に特化していました。それは、西洋化一辺倒の時代に対する明確な挑戦状でした。翌1890年、岡倉天心は28歳という異例の若さで第2代校長に就任。その意欲的で革新的な教育理念の下、横山大観・菱田春草・下村観山など後の日本画壇を根底から変えることになる若き才能たちを育て上げます。東京美術学校は、まさに岡倉天心の理想が結集した輝かしい近代日本美術の城でした。
第二章 理想の軋轢、美術学校騒動
しかし、岡倉天心の急進的な理想は時代の逆風に晒されることになります。かつての工部美術学校の流れを汲む洋画家たちは、反・東京美術学校の拠点として「明治美術会」を結成。岡倉天心の日本美術中心主義に、公然と異を唱えます。学内においても、彼の専権的な学校運営に対する不満が徐々に燻り始めます。日本の近代美術は、西洋に学ぶべきか、伝統に帰るべきか。その路線対立は、単なる学内の問題を越えて美術界全体を巻き込む激しい権力闘争へと発展していきます。
この対立が頂点に達したのが、1898年。長年の後援者であった文部官僚・九鬼隆一の妻・波津子と岡倉天心の不倫問題が、公のものとなります。反対派にとって、岡倉天心を失脚させる絶好の口実となり、学内外から猛烈な批判が噴出。ついに東京美術学校校長の職を罷免されることになります。世に言う「美術学校騒動」により、岡倉天心が自らが築いた城から追われることとなりました。
第三章 在野からの再起、そして世界へ
日本美術を巡る闘いは、ここで終わりません。橋本雅邦をはじめ、横山大観・菱田春草ら主要な教官たちが一斉に辞職。師と共に、在野から理想を追求する道を選びます。同年、彼らは私的な美術団体「日本美術院」を設立。日本美術院において、岡倉天心は弟子たちを鼓舞し、革新的な日本画の創造を推し進めます。
やがて日本国内での活動に行き詰まりを感じた岡倉天心の視線は、世界へと向けられます。卓越した語学力を武器に、英文による著作『東洋の理想』・『日本の目覚め』そして『茶の本』を相次いで出版。西洋中心の史観に対し、アジアの精神文化の価値を力強く世界に説きます。その名声は彼をアメリカのボストン美術館へと導き、東洋部長として世界有数の東洋美術コレクションを形成するに至るのです。
岡倉天心が遺した最大の遺産は、日本の近代美術教育の礎を築いたことにありました。自らが創立した官学・東京美術学校と、理想を貫くために在野で立ち上げた日本美術院。官と民二つの偉大な教育の源流は、形を変えながらも、今なお日本の芸術界に脈々と受け継がれているのです。


