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ダイガクコトハジメ - 山尾庸三 - 大学の始まり物語

山尾庸三
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山尾庸三

 

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約3,000文字(読了目安:5-10分程度)​

「日本人技術者の育成、工部大学校創立」

山尾庸三の大学”始まり”物語

序章 長州の若き志士と黒船の衝撃

 1837(天保8)年、周防国吉敷郡二島村(現在の山口県山口市)に、長州藩重臣の給領地庄屋であった山尾忠治郎の二男として山尾庸三が生まれる。若くして経理の才を認められ藩の奉公に上がった庸三は、1852(嘉永5)年、16歳で江戸へ赴き同郷の桂小五郎に師事する。そこで直面したのは、翌年の黒船来航に揺れる日本の危うい現実であった。1861(万延2)年、25歳の彼は幕府の船に乗り込みロシア領アムール川流域を査察するなど、早くから外の世界へと目を向けていく。

第一章 密航と造船所での思想形成

 国内の政情は彼を穏やかな学問には留め置かなかった。1862(文久2)年、26歳となった庸三は英国公使館焼き討ち事件に参加。伊藤博文と共に暗殺事件にも関与するなど、迫り来る外国の脅威に対し、武力による排斥を行動で示していた。


 その翌1863(文久3)年、27歳の彼は長州藩の命を受け、国禁を犯してイギリスへの密航を決意する。伊藤や井上馨らと共に海を渡った、いわゆる「長州五傑」である。彼らの荷物は、間違いだらけの英語辞書一冊と寝巻きだけ。水兵同然の粗末な扱いを受けた過酷な航海の末にロンドンへ到着。彼がそこで目撃したのは、巨大な海軍施設や工場群という圧倒的な物質文明であった。攘夷の無謀さを痛感した庸三はスコットランドのグラスゴーに向かい、現地の造船所で徒弟として働き始める。油にまみれて過酷な肉体労働に耐えながら実地で技術を学ぶ日々。そこで彼が見たものは、船を造り上げる工業力だけではない。造船所では聴覚障害者が熟練工として働き、社会の働き手として自立していたのである。単なる機械の導入ではなく、人民を教育し自立させることが真の近代化である。実学と教育への確信を得た瞬間であった。
 

第二章 お雇い外国人からの脱却と建学

 1868(明治元)年、明治新政府が樹立。帰国した32歳の庸三は新政府に出仕、横須賀製鉄所担当の権大丞となる。当時の日本は、鉄道や電信など近代化の基盤をすべて「お雇い外国人」に依存していた。この状況に強烈な危機感を抱いた庸三は、1870(明治3)年、34歳にして伊藤と共に中央官庁「工部省」の設立に奔走する。外国人に頼り続けるのではなく、自国で日本人技術者を養成しなければ国家の真の自立はない。彼は工部省内に教育機関「教務部」を併設することを強く主張した。


 1871(明治4)年、35歳の庸三は工部省内に「工学寮」を創設、自ら初代工学頭に就任する。しかし建学の道は平坦ではなかった。教師団の人選を依頼していた鉄道技師長エドモンド・モレルが急逝したのである。近代化の歩みを止めるわけにはいかない。彼は即座に旧知のイギリス人ヒュー・マセソンに協力を打診、ヘンリー・ダイアーを筆頭とする俊英の教師団を招聘する。


 1873(明治6)年、ついに工学寮工学校が発足。基礎・専門・実地の各2年を合わせた6年制の画期的な教育システムが構築された。机上の空論ではなく、工場での実地修練を重んじるカリキュラム。自ら徒弟として造船所で汗を流した庸三の経験が、そのまま日本の工学教育の骨格となったのである。
 

第三章 技術立国と共生社会への魂の継承

 

 1877(明治10)年、工学寮工学校は「工部大学校」へと改称される。この時、初代校長として迎えられたのは、かつて旧幕府軍として五稜郭で新政府軍に刃を交えた大鳥圭介であった。国家のインフラを担う日本人技術者の育成において、出自や過去の対立は関係ない。必要なのは実学の才である。出自を問わぬ実力本位の人事により、工部大学校は世界最高水準の工業教育施設へと発展していく。


 また、庸三の視線は社会の片隅に置かれた人々にも向けられ続けていた。1871(明治4)年に「盲学校・聾学校設置」の建白書を提出していた彼は、1876(明治9)年、40歳にして楽善会訓盲院の設立認可を勝ち取る。日本における特別支援教育の本格的な幕開けである。


 1885(明治18)年、内閣制度の発足に伴い工部省は廃止され、翌1886(明治19)年に工部大学校東京大学工芸学部と合併し「帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)」となった。庸三が蒔いた工学の種は、やがて日本の近代化を牽引し、世界と肩を並べる技術立国へと押し上げる無数の理系エリートたちを生み出していった。


 かつて武力による排斥を試みた若者は、自ら油まみれになって働くことで真の国家の在り方を悟った。「自国の技術者を育成する」という圧倒的な執念。山尾庸三が実践の中から築き上げた工部大学校訓盲院という二つの礎は、現代の科学技術と共生社会の根底に、今も色褪せることなく確固たる光を放ち続けている。

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