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ダイガクコトハジメ - 堀達之助 - 大学の始まり物語

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年表

堀達之助

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  • 堀達之助|大学事始「大学の 始まり”物語。」

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約3,000文字(読了目安:5-10分程度)​

​「I can speak Dutch! 幕末外交を拓く」

堀達之助の大学“始まり”物語

序章 長崎の通詞と未知なる言語

 1823(文政6)年、肥前長崎にてオランダ語通詞・中山家の五男として堀達之助が生まれる。のちに同じく通詞である堀家の養嗣子となった彼は、幼き頃より異国の言葉と空気に触れて育つ。長崎という日本の窓口で蘭学を修め、1845(弘化2)年に江戸幕府の小通詞末席に就く。


 当時の幕府の外交言語はオランダ語が独占していた。しかし1848(嘉永元)年、達之助は密入国したアメリカ人捕鯨船員ラナルド・マクドナルドと接触、彼から日本で初めて本格的に英語を学ぶ。オランダの覇権が陰り、英語を操る英米が世界を席巻しつつある現実。次代の波を察知し、いち早く未知の言語体系に飛び込んだ。

第一章 黒船来航と外交最前線の挫折


 1853(嘉永6)年、アメリカのペリー率いる黒船が浦賀に来航する。幕府の命を受けた達之助は、浦賀奉行所与力・中島三郎助と共に小舟で旗艦サスケハナ号へと接近する。乗船を固く拒む米側に対し、見上げるような巨船に向かって彼は「I can speak Dutch!(私はオランダ語が話せる)」と英語で叫んだ。この一言により米国側のオランダ語通訳ポートマンが現れ、歴史的な日米交渉の糸口が開かれる。国家の命運を分ける叫び、外交最前線での躍動。


 翌1854(嘉永7)年、達之助はペリー再来航時にも日米和親条約の締結に深く関与する。しかし、直後に事態は暗転する。下田詰めの最中、ドイツ商人から条約締結を求める書簡を受け取った際、幕閣に報告せず独断で処理しようとしたと咎められたのである。リュードルフ事件と呼ばれるこの一件により、彼は小伝馬町の牢獄へと投獄される。


 国家の危機を救う実務能力を持ちながら、旧態依然とした幕府の壁に阻まれる挫折。約四年に及ぶ獄中生活の中で、同じく幽閉の身であった吉田松陰と文通を交わし、日本の未来を憂う日々を過ごす。
 

第二章 幕府外交中枢機関と日本初の辞書


 彼の不遇を救ったのは、真の実務能力を求める時代の要請だった。1859(安政6)年、幕府の洋学研究・外交機関「蕃書調所」の頭取・古賀謹一郎の尽力により、達之助は出獄を果たす。目前に迫る外交折衝において、彼の圧倒的な語学力が不可欠であると見抜かれたのである。


 牢獄から幕府の外交中枢機関へ。蕃書調所の翻訳主任に抜擢された達之助は、持てる知識を翻訳事業に注ぎ込む。1860(万延元)年には外国新聞の翻訳作業に従事、日本初の新聞となる『官板バタビヤ新聞』を発行する。


 そして1862(文久2)年、西周らを率いて編纂を続けていた『英和対訳袖珍辞書』を刊行する。これは鉛活字と木版を組み合わせた、日本初の本格的な印刷英和辞典である。オランダ語を介する重訳の限界を打破し、国家として直接交渉するための独立した外交能力を獲得する。まさに日本の近代化に向けた、決定的な思想的武器の完成であった。
 

第三章 北の大地へ受け継がれる知の種


 1863(文久3)年、蕃書調所は「開成所」と改称され、達之助はその教授に就任する。しかし、彼の眼差しは江戸にとどまらなかった。1865(慶応元)年、北の防衛拠点・箱館へと赴任し、箱館奉行通詞となる。箱館洋学所で後進の英語通詞を育成、「函館文庫」を創設して洋書の保存に尽力。国家の最前線で、実践的な語学と知の継承を推し進める。


 1868(明治元)年、大政奉還と明治新政府の樹立を経て、時代は大きくうねりを上げる。達之助は箱館裁判所参事席や文武学授掛に就任。その後も開拓使の役人として、また函館の郷塾の教師として、教育の現場に立ち続けた。
 

 1894(明治27)年、堀達之助はこの世を去る。幕末の外交最前線で命懸けの通訳を担い、入牢という挫折を乗り越えて、国家のインフラとなる英和辞典を編纂した男。彼が蕃書調所開成所で築き上げた英語教育の基盤と翻訳の系譜は、のちの東京大学へと受け継がれ、近代日本の外交と学問を支える巨大な礎となったのである。

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