工部大学校
山尾庸三
やまおようぞう
1837(天保8)年10月8日/11月5日 - 1917(大正6)年12月22日
1837(天保8)年10月8日/11月5日
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山尾庸三、周防国吉敷郡二島村(現在の山口県山口市秋穂二島)に長州藩重臣で寄組繁沢氏の給領地庄屋であった山尾忠治郎の二男として生まれる。
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山尾庸三、萩藩寄組・繁沢石見に経理の才を認められ、奉公に上がる。
1852(嘉永5)年
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山尾庸三(14-15歳)、江戸に赴き、同郷の桂小五郎に師事。その後、「江川塾」の門弟に。
1861(文久元)年
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山尾庸三(23-24歳)、幕府船・亀田丸に乗船、アムール川流域を査察。
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山尾庸三、帰国後、箱館に滞在。武田斐三郎に師事。
1862(文久2)年12月
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山尾庸三(24-25歳)、英国公使館焼き討ち事件に参加。伊藤博文と共に、塙忠宝・加藤甲次郎を暗殺。尊王攘夷の志士として活動。
1863(文久3)年5月12日 - 1868(明治元)年
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山尾庸三(25-31歳)、藩命により陪臣から士籍に。密航で伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリス留学。長州五傑と呼ばれる。ロンドンにて英語と基礎科学を学んだ後、グラスゴーにて造船を中心とした徒弟制訓練を受ける。アンダーソン・カレッジの音楽教師であったコリン・ブラウンの家に下宿、講義を受ける。
1863(文久3)年5月12日 - 1864(元治元)年6月
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伊藤博文(21-22歳)、井上馨の薦めで海外渡航を決意。藩命により陪臣から士籍に。密航で山尾庸三・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリス留学。長州五傑と呼ばれる。荷物は1862(文久2)年発行の間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけ。途中に寄港した清の上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられる。9月23日、ロンドン到着。
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伊藤博文(21-22歳)、ヒュー・マセソンの世話を受け、化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在。英語や礼儀作法の指導を受ける。英語を学ぶと共に博物館・美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広める。イギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりに、開国論に転じる。
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伊藤博文(22歳)、米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知り、井上馨と共に急ぎ帰国。
1868(明治元)年
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山尾庸三(30-31歳)、帰国。明治政府に出仕、横須賀製鉄所担当権大丞に。
1870(明治3)年10月20日/12月12日
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鉄道技師長エドモンド・モレル、伊藤博文に工部省設置を提案。その中で明治政府は、お雇い外国人技術者に頼るのではなく、日本人技術者を養成すべきとし、教務部併設を主張した。太政官制度の下、日本近代化のための社会基盤整備と殖産興業推進を目的とする中央官庁として、工部省設置。
1870(明治3)年10月20日/12月12日
1870(明治3)年10月20日/12月12日
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山尾庸三(32歳)、鉄道技師長エドモンド・モレルの提案を受け、伊藤博文と共に工部省設立に尽力。
1871(明治4)年8月14日/9月29日
1871(明治4)年8月14日/9月29日
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山尾庸三(33歳)、工部省の10寮1司の一等寮として「工学寮」創設。工部権大丞として、初代工学頭に。
1871(明治4)年
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山尾庸三(32-33歳)、盲学校、聾学校の設置を主張する建白書を表す。障害者教育に熱心に取り組む。
1875(明治8)年5月
1876(明治9)年
1880(明治13)年
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山尾庸三(42-43歳)、工部卿に。
1880(明治13)年
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山尾庸三(42-43歳)、「楽善会訓盲院」を設立。
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山尾庸三、参事院議官に。
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山尾庸三、参事院副議長に。
1885(明治18)年
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山尾庸三(47-48歳)、新設の法制局、初代長官に。
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山尾庸三、宮中顧問官に。
1898(明治31)年
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山尾庸三(60-61歳)、退官。
1915(大正4)年
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山尾庸三(77-78歳)、日本聾唖協会、総裁に。
1917(大正6)年12月22日
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山尾庸三(80歳)、死去。享年、80歳。
