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ダイガクコトハジメ - 板垣退助

板垣退助

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  • 1837(天保8)年5月21日(旧暦・4月17日) 板垣退助(1歳)、土佐藩高知城下中島町(現・高知県高知市本町通2丁目)に土佐藩上士・乾正成の長男として生まれる。乾家は、武田信玄の重臣・板垣信方を祖とする。親戚に、坂本龍馬。

  • 板垣退助(幼少期)、腕白そのもの。後藤象二郎と竹馬の友に。「母が予を戒めて云ふに喧嘩しても弱い者を苛めてはならぬ、喧嘩に負けて帰れば母叱って直ぐに門に入れない。成長すると、また仮りにも卑怯な挙動をして祖先の家名を汚してはならぬと教えられた」。

  • 板垣退助、上士と下士の身分が確立されている土佐藩にあって、谷干城や佐々木高行と同じく、下士に対し寛大だった。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

  • 1856(安政3)年8月8日 板垣退助(20歳)、高知城下四ヶ村の禁足を命ぜられ、神田村に蟄居。ここで身分の上下を問わず、庶人と交わる機会を得る。一時は家督相続すら危ぶまれるも、父・乾正成の死後、家禄を220石に減ぜられ、家督相続を許される。

  • 1861(万延2/文久元)年10月-11月 板垣退助(25歳)、江戸留守居役兼軍備御用に。江戸に出る。

  • 1862(文久2)年6月 板垣退助(26歳)、小笠原唯八と共に、佐々木高行に会い、勤皇に盡忠することを誓う。

  • 1862(文久2)年10月17日 板垣退助(26歳)、土佐藩主・山内容堂の御前にて、寺村道成と時勢について対論。尊皇攘夷を唱える。

  • 1862(文久2)年12月9日 勝海舟(40歳)、松平春嶽の招待状を手に坂本龍馬が来訪。「今宵の事ひそかに期する所あり。もし公の説明如何によりては、敢えて公を刺さんと決したり」、開国派先鋒と目される勝海舟の暗殺も辞さぬ坂本龍馬だったが、勝海舟の主張は幕府・諸侯協力による国力・軍事力増強による欧米列強への対抗であり、すっかり感化される。「大いに余の固陋を恥ず。請う、これよりして公の門下生とならん」と門弟に。師弟により、海軍操練所創設が構想される。

  • 1862(文久2)年12月 勝海舟(40歳)、14代将軍・徳川家茂の上洛に際し、幕府首脳を順動丸で大坂へ移送する役目を負う。老中格・小笠原長行に海軍操練所建造を提言、兵庫の海岸線調査を行う。

  • 1863(文久3)年 勝海舟(41歳)、京都から大坂へ下った14代将軍・徳川家茂を出迎え、順動丸で神戸まで航行。神戸港を日本の中枢港湾にすべしと提案。後に神戸は東洋最大の港湾へ発展を遂げることに。また同行者していた公家・姉小路公知も抱き込み、神戸海軍操練所設立許可を取り付ける。幕府より、年3000両の援助金も約束。神戸海軍操練所と別に、私塾設立も認められる。​

  • 勝海舟、神戸海軍操練所設立に先立ち、私塾・海軍塾(神戸塾)創立。薩摩藩や土佐藩の荒くれ者・脱藩者が塾生となり出入り。塾頭に、坂本龍馬。

  • 1863(文久3)年1月4日 板垣退助(27歳)、高輪の薩摩藩邸にて、大久保一蔵に会う。

  • 1863(文久3)年11月11日 板垣退助(27歳)、土佐藩主・山内容堂に随行、上洛のため品川を出帆。悪天候により下田港に漂着。

  • 1864(文久4/元治元)年1月15日 板垣退助(28歳)、土佐藩主・山内容堂の本陣に勝麟太郎を招聘。坂本龍馬の脱藩を赦すことを協議。

  • 1864(文久4/元治元)年5月 勝海舟(42歳)、海軍士官養成機関・神戸海軍操練所創立。公議政体論の軍事的応用、幕府や諸藩の垣根を越えて「日本の一大共有の海局を作りあげる」という壮大な構想を掲げ、「日本の海軍」創設を目指す。軍艦奉行に昇格。

 

  • 1864(文久4/元治元)年4月12日 板垣退助(28歳)、土佐に帰藩。

 

  • 1865(元治2/慶応元)年1月14日 板垣退助(29歳)、洋式騎兵術修行を命ぜられる。江戸で幕臣・倉橋長門守、深尾政五郎らにオランダ式騎兵術を学ぶ。

  • 1866(慶応2)年11月 板垣退助(30歳)、薩摩藩士・吉井友実らと交流。

  • 1867(慶応3)年2月 板垣退助(31歳)、水戸浪士・中村勇吉、相楽総三らを独断で江戸の土佐藩邸に匿う。

  • 1867(慶応3)年5月 大久保利通(38歳)、雄藩会議の開催を小松清廉や西郷隆盛と計画。四侯会議を開催。しかし、四侯会議が徳川慶喜によって頓挫させられたため、公武合体路線を改め、武力倒幕路線を指向することに。

  • 1867(慶応3)年5月18日 板垣退助(31歳)、武力倒幕を一貫して主張。京都料亭・近安楼にて、福岡藤次・船越洋之助らと共に、中岡慎太郎と会見。武力討幕を議す。

  • 1867(慶応3)年5月21日 板垣退助(31歳)、薩土密約、京都の小松清廉邸にて、中岡慎太郎の仲介により、土佐藩の谷干城・毛利恭助らと共に薩摩藩の西郷吉之助らと武力討幕を議す。「戦となれば、藩論の如何にかかわらず、必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」と決意を語る。

  • 1867(慶応3)年5月21日 谷干城(31歳)、京都の小松清廉邸にて、中岡慎太郎の仲介により、板垣退助や毛利吉盛と共に薩摩藩の西郷隆盛や吉井友実と会い、薩土密約を結ぶ。武力討幕を目指す。

  • 谷干城板垣退助・後藤象二郎が薩土盟約を締結。大政奉還を趣旨とする穏健な倒幕を目指していたため、目標と食い違う。山内容堂に重用された後藤象二郎が土佐藩を動かしていく状況に不満を募らせる。

  • 1867(慶応3)年5月27日 板垣退助(31歳)、薩土密約に基づき、大坂でアルミニー銃300挺を購入。土佐に帰藩。

  • 1867(慶応3)年7月22日 板垣退助(31歳)、土佐藩の大監察に復職。軍制改革を指令。

  • 1867(慶応3)年8月20日 板垣退助(31歳)、土佐藩より、アメリカ合衆国派遣の内命を受ける。後に中止。

  • 1867(慶応3)年9月6日 板垣退助(31歳)、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助・安岡覚之助らを釈放。これに応じ、七郡勤王党幹部らが議し、討幕挙兵の実行を決議。

  • 1867(慶応3)年9月8日 大久保利通(38歳)、三藩盟約、武力による新政府樹立を目指す小松清廉・西郷隆盛と共に長州藩の柏村数馬に武力政変計画を打ち明ける。それを機に、京都において薩摩藩が大久保利通と西郷隆盛、長州藩の広沢真臣・品川弥二郎、広島藩の辻維岳が会し、出兵協定を結ぶ。

  • 1867(慶応3)年10月 板垣退助(31歳)、土佐藩邸に匿っていた水戸浪士らを薩摩藩邸へ移す。

  • 1867(慶応3)年10月14日-10月15日 大久保利通(38歳)、正親町三条実愛より、倒幕の密勅の詔書を引き出す。小松清廉・西郷隆盛と共に署名、倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功。しかし、翌日に土佐藩の建白を受けていた将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たす。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し

官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。

  • 1868(慶応4/明治元)年 板垣退助(32歳)、土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊総督として、谷干城と共に藩兵を率いる。東山道先鋒総督府の参謀として従軍。

  • 1868(慶応4/明治元)年 谷干城(32歳)、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦い。板垣退助と共に藩兵を率い、出動。迅衝隊の小軍監として、北関東・会津戦争で活躍。3月、新選組から改名した甲陽鎮撫隊を甲州勝沼の戦いで破る。江戸開城で待機。4月、北上、日光山で旧幕府軍と対峙、今市の戦い。5月、土佐へ戻る。戦線へ復帰。会津へ向かう。8月、会津城籠城戦に加わる。11月、土佐へ凱旋。戦功として家禄400石に加増、仕置役に。

  • 1868(慶応4/明治元)年2月14日 板垣退助(32歳)、祖先・板垣信方の没後320年にあたることより、「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」と岩倉具視らの助言を得る。板垣に姓を復す。

  • 1868(慶応4/明治元)年3月29日(旧暦・3月6日) 板垣退助(32歳)、甲州勝沼の戦い、近藤勇の率いる新選組を撃破。その後に江戸に転戦した際、板垣の氏が旧武田家臣が多く召し抱えられていた八王子千人同心たちの心を懐柔。

1868(慶応4)年4月6日(旧暦・3月14日) 『五箇条の御誓文

政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」

  • 1868(慶応4/明治元)年12月 板垣退助(32歳)、東北戦争、三春藩を無血開城。二本松藩・仙台藩・会津藩など攻略、軍功により賞典禄1,000石を賜る。土佐藩陸軍総督に。家老格に進み、家禄600石に加増。

  • 1869(明治3)年2月 板垣退助(33歳)、木戸孝允・西郷隆盛・大隈重信と共に、明治新政府の参与に。

1869(明治2)年 版籍奉還

諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。

  • 1870(明治3)年 板垣退助(34歳)、高知藩の大参事に。人民平均の理を発令。

  • 1870(明治3)年 谷干城(34歳)、少参事に。高知にて、藩政改革に尽力。東京の後藤象二郎と板垣退助による積極財政と浪費により、藩財政が傾く。これに反発、片岡健吉と共に費用削減を遂行。これが怒りを買い、藩政から排除される。しかし、浪費で財政が傾き、反対派から信望を集める結果に。

  • 1870(明治3)年 江藤新平(37歳)、制度取調専務として国家機構の整備に従事。大納言・岩倉具視に対し、30項目の答申書を提出。フランス・プロシア・ロシアをモデルとした三権分立と議会制、君主国家と中央集権体制の促進、四民平等を提示。憲法の制定作業に着手

  • 江藤新平、国法会議や民法会議を主催、箕作麟祥加藤弘之らと共に『民法典編纂』に取り組む。​フランスの法制度を高く評価。「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」・「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」。普仏戦争でフランスが大敗するも、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒める。​

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

  • 1871(明治4)年 板垣退助(35歳)、参議に。

  • 1872(明治5)年4月25日 江藤新平(39歳)、新設された司法省の初代司法卿に就任。四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進。特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。

 

  • 江藤新平、政府内における急進的な民権論者であり、「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。

  • 江藤新平、英仏を範とする西欧的な三権分立の導入を進める。政府内保守派は、行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持ち、プロイセン王国(後のドイツ帝国)を範としており、厳しく非難される。また、急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省・井上馨との確執を招く。

  • 1873(明治6)年5月 江藤新平(40歳)、官吏の汚職に厳しく、新政府で大きな力を持っていた長州閥・山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及。予算を巡る対立も絡み、2人を一時的に辞職に追い込む。

1873(明治6)年10月24日-10月25日 明治六年政変

征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・桐野利秋・大隈重信大木喬任ら。反対したのが大久保利通・岩倉具視

・木戸孝允・伊藤博文・黒田清隆ら。岩倉遣欧使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことも大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。

閣議において、大隈重信大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。

西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。

  • 1873(明治6)年 板垣退助(37歳)、明治六年政変、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に、世論が沸騰。率先して征韓論を主張するも、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤、西郷隆盛・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らと共に下野。世論もこれを圧倒的に支持、倣って職を辞する官僚が600名あまりに及ぶ。自身と土佐派官僚が土佐で自由民権を唱える契機となる。

  • 1873(明治6)年10月24日 江藤新平(40歳)、朝鮮出兵を巡る征韓論問題より発展した政変で、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に下野。

  • 1873(明治6)年 谷干城(37歳)、熊本鎮台司令長官に。徴兵令を巡る対応が人事に絡み、反対派の桐野利秋が辞任。自身は賛成派であったため、山縣有朋に任じられたという事情が。軍の近代化に取り組み、部隊にフランス式訓練を施す中、明治六年政変で板垣退助が下野したことで高知出身の軍人も多数下野。鎮台に出火騒ぎや部隊暴動が起こり、動揺をもたらした板垣退助との確執を強めていく。

1874(明治7)年 - 1890(明治23)年 自由民権運動

明治六年政変で征韓論を主張し敗れた板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らが明治政府を下野、征韓派勢力を結集。1874(明治7)年1月12日、愛国公党を結成。1月17日に『民選議員設立建白書』を左院に提出。国会開設の請願を行ったことに始まる政治・社会運動。藩閥政府による専制政治を批判。憲法制定・議会開設・地租軽減・不平等条約撤廃・言論の自由や集会の自由の保障など要求を掲げる。1890(明治23)年の帝国議会開設頃まで続く。

自由民権運動は教育界にも多大に影響。1876(明治9)年、代言人(弁護士)資格試験制度が発足すると、代言人の養成を主目的とする私立法律学校が林立。これら私立法律学校が法学を学ぼうとする法律青年だけでなく、自由民権運動に熱を上げる政治青年の学びの場に。法学教育が同時に政治教育の役割も担うこととなる。特に、明治法律学校(現・明治大学)ほか「権利や自由の重要性」を説くフランス法系法律学校は自由民権運動の牙城に。政府より猜忌の目を以って注視されることに。

  • 1874(明治7)年1月12日 板垣退助(38歳)、『五箇条の御誓文』の「万機公論に決すべし」を根拠に、愛国公党を結成。後藤象二郎・江藤新平らと左院に民撰議院設立建白書を提出するも、却下される。

  • 1874(明治7)年1月12日 江藤新平(41歳)、愛国公党より政府に対し『民撰議院設立建白書』を提出。後藤象二郎、小室信夫、由利公正、岡本健三郎、古沢滋らと共に署名。佐賀への帰郷を決意。大隈重信板垣退助・後藤象二郎らは、帰郷が大久保利通の術策に嵌るものであることを看破、慰留の説得を試みるも、全く耳を貸さず。翌13日、船便で九州へ向かう。

  • 1874(明治7)年2月11日-12日 江藤新平(41歳)、憂国党・島義勇と会談。翌12日、佐賀征韓党首領として擁立される。政治的主張の全く異なる征韓党と憂国党が共同、反乱を計画。

  • 1874(明治7)年2月16日 江藤新平(41歳)、憂国党が武装蜂起、士族反乱である佐賀の乱(佐賀戦争)が勃発。県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村通俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃。その約半数に損害を与え、遁走させる。

  • 1874(明治7)年2月 大久保利通(45歳)江藤新平・島義勇らが率いる不平士族による初の大規模反乱・佐賀の乱が勃発。自ら鎮台兵を率い遠征。

  • 1874(明治7)年3月1日 江藤新平(41歳)、征韓党を解散、逃亡。鹿児島鰻温泉に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られる。

  • 1874(明治7)年3月25日 江藤新平(41歳)、高知の林有造・片岡健吉の下を訪ね、武装蜂起を説くがいずれも容れられず。このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。その途、捕縛され佐賀へ送還される。自らが確立した写真手配制度の被適用者第1号となってしまう。

  • 1874(明治7)年4月10日 板垣退助(38歳)、片岡健吉・山田平左衛門・植木枝盛・林有造らと共に、天賦人権を宣言。人民の知識の発達・気風の養成・福祉の上進・自由の進捗を目的に政治団体・立志社結成。高知の自由民権運動の中心となる。また、近代的な教育・民権思想の普及を担う立志学舎創立。教員に、慶應義塾を卒業した江口高邦・深間内基・矢部善蔵を迎え、次いで土佐藩藩校教授だった塚原周造・久米弘行・森春吉が駆けつける。慶應義塾と同じカリキュラムが組まれ、フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの文明史、高水準の政治学、経済学、歴史学、地理学などを教授。法律研究所や新聞縦覧所を置き、『高知新聞』を発行するなど多様な教育を行う。

  • 1874(明治7)年 福澤諭吉(40歳)、明治六年政変で板垣退助・後藤象二郎・江藤新平が野に下ると、高知の立志学舎慶応義塾門下生を教師として派遣。また、後藤象二郎の政治活動を支援。国会開設運動の先頭に立ち、郵便報知新聞に『国会論』と題する社説を掲載。

  • 福澤諭吉板垣退助の愛国社から頼まれ、『国会を開設するの允可を上願する書』起草に助力。

  • 1874(明治7)年 福澤諭吉(40歳)地下浪人だった岩崎弥太郎と面会、山師ではないと評価。三菱商会に荘田平五郎や豊川良平といった慶應義塾門下を投入。また、後藤象二郎の経営する高島炭鉱を岩崎弥太郎に買い取らせる。​​

  • 1874(明治7)年4月13日 江藤新平(41歳)、征韓党の首領として、佐賀の乱の責により処刑される。享年41歳。辞世の句「ますらおの 涙を袖にしぼりつつ 迷う心はただ君がため」。後に、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれる。贈正四位。「維新の十傑」・「佐賀の七賢人」の一人に挙げられる。

  • 1875(明治8)年1月-2月 伊藤博文(35歳)、盟友・井上馨と共に木戸孝允と大久保利通の間を取り結び、板垣退助とも繋ぎ、大阪会議を斡旋。

  • 1875(明治8)年1月-2月 大久保利通(46歳)、参議・伊藤博文と前大蔵大輔・井上馨の斡旋により、木戸孝允・板垣退助と大阪にて秘密政治会談(大阪会議)。1873(明治6)年の政変、1874(明治7)年の民撰議院設立建白・佐賀の乱・台湾出兵などにより、大久保利通を中心とする政府が孤立、政局は危機に瀕する。この窮状を打破するため、先に下野した木戸孝允の政府復帰を望み、板垣退助も参加させる形で会談にこぎつける。元老院・大審院の創設、地方官会議の開催、参議と省の卿との分離など政体改革構想で合意。木戸孝允・板垣退助が参議に復帰。4月、参議省卿の分離問題を除く大阪会議の合意事項が実現。しかし、改革実施過程で再び対立。10月、板垣退助辞職。一連の改革により、政府は安定度を増す。

  • 1875(明治8)年 大隈重信(38歳)、大阪会議の開催を知らされず。関係が悪化していた木戸孝允の政界復帰は、自身の権力基盤を脅かすことに。この頃から、体調不良を理由に出仕せず。三条実美・岩倉具視・大久保利通は大蔵卿解任を検討するも、後任候補の伊藤博文が辞退したこと、大隈重信以上の財政家の不在を理由に慰留・続投を促す。しかし、復帰した木戸孝允・板垣退助も辞任を要求。大久保利通に庇護される形に。10月29日、島津久光・板垣退助が辞職、木戸孝允が病状悪化、自身への攻撃は消滅。

  • 1875(明治8)年10月29日 板垣退助(39歳)、大阪会議、参議に復帰するも民衆の意見が反映される議会制政治を目指し、間もなく辞任。再び自由民権運動に身を投じる。

  • 1876(明治9)年2月 福澤諭吉(42歳)、懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らと共に、初めて大久保利通と会談。晩餐のあと、大久保利通が「天下流行の民権論も宜しいけれど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなくてはならぬ」と述べる。自身を民権論者の首魁のように誤解していると感じ、民権運動を暴れる蜂の巣に例えて、「蜂の仲間に入って飛場を共にしないばかりか、今日君が民権家と鑑定した福澤諭吉が着実な人物で君らにとって頼もしく思える場合もあるであろうから幾重にも安心しなさい」と回答。

  • 1878(明治11)年3月 森下岩楠(27歳)、三菱の商業学校設立を岩崎弥太郎より説かれる。神田錦町に三菱商業学校創立。初代校長に。教官のほとんどを慶應義塾門下生で構成。慶應義塾の分校的教育機関となる。全国から優秀な学生を集め、三菱の幹部候補生を育成。

  • 1878(明治11)年 谷干城(42歳)、高知で自由民権運動が過激化することを憂う。板垣退助の急進的な民権派の政治団体立志社に対抗、佐々木高行と共に穏健な政治運動を標榜する中立社を立ち上げ。立志社の勢いに太刀打ち出来ず、廃社。​

1881(明治14)年10月 明治十四年の政変

自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。

政府から追い出され下野した福澤諭吉慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、明治十四年の政変、自由民権運動に同調。国会開設意見書を提出、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く。一方、開拓使官有物払下げを巡り、かつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立。自身の財政上の失政もあり、参議を免官に。下野。

1881(明治14)年10月12日 国会開設の勅諭

自由民権運動の高まりを受け、また明治十四年の政変による政府批判の鎮静化を目的に。明治天皇が「10年後の1890(明治23)年に議員を召して国会を開設すること」・「その組織や権限は自ら定めて公布する(欽定憲法)こと」を勅諭。政府は政局の主導権を取り戻す一方、自由民権運動は国会開設に向けた政党結成に向かうことに。

  • 1881(明治14)年 板垣退助(45歳)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党結成。総理に。

  • 1881(明治14)年、三菱商業学校教員の馬場辰猪・大石正巳らが自由党結成に参加。三菱商業学校校舎を使い、夜間教室の明治義塾開設。土佐熱血漢達の自由民権思想普及の場として人気を集めるも、薩長閥の政府から睨まれることに。

  • 1882(明治15)年4月 板垣退助(46歳)、自由党の党勢拡大に全国遊説中、岐阜にて暴漢・相原尚褧に襲われ、負傷(岐阜事件)。竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」。これがやがて、「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることに。

  • 1882(明治15)年11月 - 1883(明治13)年6月 板垣退助(46-47歳)、後藤象二郎と洋行。

1884(明治17)年7月7日 華族令

制度取調局局長・伊藤博文を中心に制定。華族を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵に区分。旧公家の華族は家格により、旧大名の華族は石高により爵位受爵。また、国家に勲功ある者を新たに華族に列する。爵位は代々世襲される(永世華族)。1889(明治22)年貴族院令にて、同爵の互選により貴族院議員となる特権を持つ。華族令制定直後の7月中に509名の有爵者が誕生。

  • 1884(明治17)年10月 板垣退助(48歳)、自由民権運動激化。加波山事件が起き、自由党を一旦解党。

  • 1884(明治17)年、三菱の資金繰りが逼迫、教師の質にばらつき、政府より謀反人の巣窟とみなされるなどを理由に、明治義塾を廃校。跡地に、英吉利法律学校と東京英語学校が創立される。

 

1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足

太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼

  • 1885(明治18)年12月 伊藤博文(45歳)、内閣制度発足。太政大臣として名目上ながら政府頂点に立っていた三条実美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し、内閣制度を作り上げた伊藤博文のいずれが初代内閣総理大臣となるのか注目される。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議において、盟友・井上馨が「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成。これには三条実美を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。以後4度にわたって内閣総理大臣を務めることに。

  • 1887(明治20)年5月 板垣退助(51歳)、自由民権運動家の立場より、華族制度に消極的であり、授爵の勅を二度断わる。しかし、三顧之礼を周囲から諭され、三度目にしてやむなく伯爵位を授爵。結果、衆議院議員となることはなく、また貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退したため、帝国議会に議席を持つことはなかった。

  • 板垣退助、大同団結運動分裂後、帝国議会開設を控え、林有造らと共に愛国公党を再び組織。第1回衆議院議員総選挙に対応。

​1889(明治22)年2月11日公布 1890(明治23)年11月29日施行 大日本帝国憲法(明治憲法)

君主大権のプロイセン憲法(ドイツ憲法)を参考に、伊藤博文が日本独自の憲法を草案。明治天皇より『大日本憲法発布の詔勅』が出され、大日本帝国憲法を発布。国民に公表される。

明治新政府は大政奉還・王政復古を経て、天皇の官制大権を前提に近代的な官僚機構構築を目指し、直接的君主政に移行。大日本帝国憲法第10条にて、「官制大権が天皇に属する」と規定。

版籍奉還を経て、土地と人民に対する統治権を藩・藩主より天皇に奉還。天皇の下に中央政府が土地・人民を支配、統治権(立法・行政・司法)を行使。廃藩置県を経て、国家権力が中央政府に集中。大日本帝国憲法第1条および同4条にて、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定。同時に、人民の財産権・居住移転の自由を保障。等しい公務就任権を規定。兵役の義務を規定。

衆議院と貴族院の両院制による帝国議会を開設、華族の貴族院列席特権を規定。

  • 1890(明治23)年 - 1891(明治24)年 板垣退助(54-55歳)、帝国議会開設後、河野広中や大井憲太郎らと共に旧自由党各派(愛国公党・自由党・大同倶楽部・九州同志会)を統合、立憲自由党を再興。翌1891(明治24)年、自由党に改称。党総理に。

  • 1896(明治29)年 板垣退助(60歳)、議会内で孤立していた自由党、第2次伊藤博文内閣と協力の道を歩む。内務大臣として入閣。続く第2次松方正義内閣においても留任するも、すぐに辞任。

  • 1897(明治30)年 板垣退助(61歳)、自由党総理を辞任。

  • 1898(明治31)年 板垣退助(62歳)、対立していた大隈重信の進歩党と合同、憲政党を組織。日本初の政党内閣である第1次大隈重信内閣に内務大臣として入閣。「隈板内閣」と呼ばれる。しかし、内紛激しく、4か月で総辞職せざるを得なくなる。

  • 1898(明治31)年6月30日-11月8日 大隈重信(60歳)、 板垣退助らと憲政党を結成。薩長藩閥以外より初の内閣総理大臣に。日本初の政党内閣を組閣。「隈板内閣」と呼ばれる。旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じる。また、文部大臣・尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職、後任人事を巡り対立がさらに激化。後任の文部大臣文相に旧進歩党・犬養毅が就任したことに不満を持った旧自由党・星亨が、一方的に憲政党の解党を宣言。新たな憲政党を結成。加えて、アメリカのハワイ併合に対し、「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」とマッキンリー大統領に言わしめるような強硬姿勢を示して外交危機を招く。11月8日、内閣総辞職。旧進歩党をまとめ、憲政本党を率いることに。

  • 1900(明治33)年 板垣退助(64歳)、立憲政友会創立と共に、政界引退。

  • 1904(明治37)年 板垣退助(68歳)、機関誌『友愛』創刊。

  • 1907(明治40)年 板垣退助(71歳)、全国の華族に向け、書面で華族の世襲禁止を問う活動を行う。

  • 1913(大正2)年 板垣退助(77歳)、肥田琢司を中心に結成された立憲青年自由党の相談役に。

  • 1914(大正3)年 板垣退助(78歳)、2度台湾を訪問、台湾同化会の設立に携わる。

  • 1918(大正7)年 下田歌子(65歳)板垣退助の妻・絹子に招聘され、東京広尾に創設の順心女学校の初代校長に。

  • 1919(大正8)年7月16日 板垣退助(83歳)、死去。享年82歳。『一代華族論』主張から、嫡男・板垣鉾太郎を自ら廃嫡。家督相続を遅らせたため、板垣家は華族の栄典喪失。自由民権運動の指導者として、東アジア初となる議会樹立。伊藤博文大隈重信とならび、「憲政の三巨人」と称される。

板垣退助

​いたがきたいすけ

1837(天保8)年5月21日(旧暦・4月17日) - 1919(大正8)年7月16日

土佐藩大監査、東山道先鋒総督府参謀、参与、参議、愛国公党結成、立志社結成、立志学舎創立、自由党結成・総理、大隈重信と憲政党を結成し日本初の政党内閣「隈板内閣」組閣、立憲政友会結成、内務大臣、自由民権運動を主導、「国会を創った男」、「憲政の三巨人

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