立志学舎
板垣退助
いたがきたいすけ
1837(天保8)年4月17日/5月21日 - 1919(大正8)年7月16日
1837(天保8)年4月17日/5月21日
-
板垣退助、土佐藩高知城下中島町(現在の高知県高知市本町通2丁目)に土佐藩上士・乾正成の長男として生まれる。乾家は、武田信玄の重臣・板垣信方を祖とする。親戚に、坂本龍馬。
-
板垣退助(幼少期)、腕白そのもの。後藤象二郎と竹馬の友。「母が予を戒めて云ふに喧嘩しても弱い者を苛めてはならぬ、喧嘩に負けて帰れば母叱って直ぐに門に入れない。成長すると、また仮りにも卑怯な挙動をして祖先の家名を汚してはならぬと教えられた」。
-
板垣退助、上士と下士の身分が確立されている土佐藩にあって、谷干城や佐々木高行と同じく、下士に対し寛大だった。
1856(安政3)年8月8日
-
板垣退助(19歳)、高知城下四ヶ村の禁足を命ぜられ、神田村に蟄居。ここで身分の上下を問わず、庶人と交わる機会を得る。一時は家督相続すら危ぶまれるも、父・乾正成の死後、家禄を220石に減ぜられ、家督相続を許される。
1861(文久元)年10月-11月
-
板垣退助(24歳)、江戸留守居役兼軍備御用に。江戸に出る。
1862(文久2)年6月
-
板垣退助(25歳)、小笠原唯八と共に、佐々木高行に会い、勤皇に盡忠することを誓う。
1862(文久2)年10月17日
-
板垣退助(25歳)、土佐藩主・山内容堂の御前にて、寺村道成と時勢について対論。尊皇攘夷を唱える。
1863(文久3)年1月4日
-
板垣退助(25歳)、高輪の薩摩藩邸にて、大久保一蔵に会う。
1863(文久3)年11月11日
-
板垣退助(26歳)、土佐藩主・山内容堂に随行、上洛のため品川を出帆。悪天候により下田港に漂着。
1864(文久4/元治元)年1月15日
-
板垣退助(26歳)、土佐藩主・山内容堂の本陣に勝麟太郎を招聘。坂本龍馬の脱藩を赦すことを協議。
1864(文久4/元治元)年4月12日
-
板垣退助(26-27歳)、土佐に帰藩。
1865(慶応元)年1月14日
-
板垣退助(27歳)、洋式騎兵術修行を命ぜられる。江戸で幕臣・倉橋長門守、深尾政五郎らにオランダ式騎兵術を学ぶ。
1866(慶応2)年11月
-
板垣退助(29歳)、薩摩藩士・吉井友実らと交流。
1867(慶応3)年2月
-
板垣退助(29歳)、水戸浪士・中村勇吉、相楽総三らを独断で江戸の土佐藩邸に匿う。
1867(慶応3)年5月18日
-
板垣退助(30歳)、武力倒幕を一貫して主張。京都料亭・近安楼にて、福岡藤次・船越洋之助らと共に、中岡慎太郎と会見。武力討幕を議す。
1867(慶応3)年5月21日
-
板垣退助(30歳)、薩土密約、京都の小松清廉邸にて、中岡慎太郎の仲介により、土佐藩の谷干城・毛利恭助らと共に薩摩藩の西郷吉之助らと武力討幕を議す。「戦となれば、藩論の如何にかかわらず、必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」と決意を語る。
1867(慶応3)年5月21日
-
谷干城(30歳)、京都の小松清廉邸にて、中岡慎太郎の仲介により、板垣退助や毛利吉盛と共に薩摩藩の西郷隆盛や吉井友実と会い、薩土密約を結ぶ。武力討幕を目指す。
-
谷干城、後藤象二郎が薩土盟約を締結。大政奉還を趣旨とする穏健な倒幕を目指していたため、目標と食い違う。山内容堂に重用された後藤象二郎が土佐藩を動かしていく状況に不満を募らせる。
1867(慶応3)年5月27日
-
板垣退助(30歳)、薩土密約に基づき、大坂でアルミニー銃300挺を購入。土佐に帰藩。
1867(慶応3)年7月22日
-
板垣退助(30歳)、土佐藩の大監察に復職。軍制改革を指令。
1867(慶応3)年8月20日
-
板垣退助(30歳)、土佐藩より、アメリカ合衆国派遣の内命を受ける。後に、中止。
1867(慶応3)年9月6日
-
板垣退助(30歳)、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助らを釈放。これに応じ、七郡勤王党幹部らが議し、討幕挙兵の実行を決議。
1867(慶応3)年10月
-
板垣退助(30歳)、土佐藩邸に匿っていた水戸浪士ら、薩摩藩邸へ移す。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年
戊辰戦争
1868(慶応4/明治元)年
-
板垣退助(30-31歳)、土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊総督として、谷干城と共に藩兵を率いる。東山道先鋒総督府の参謀として従軍。
1868(慶応4/明治元)年2月14日
-
板垣退助(30歳)、祖先・板垣信方の没後320年にあたることより、「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」と岩倉具視らの助言を得る。板垣に姓を復す。
-
板垣退助(30-31歳)、甲州勝沼の戦い、近藤勇の率いる新選組を撃破。その後に江戸に転戦した際、板垣の氏が旧武田家臣が多く召し抱えられていた八王子千人同心たちの心を懐柔。
1868(慶応4/明治元)年12月
-
板垣退助(30-31歳)、東北戦争、三春藩を無血開城。二本松藩・仙台藩・会津藩など攻略、軍功により賞典禄1,000石を賜る。土佐藩陸軍総督に。家老格に進み、家禄600石に加増。
1868(慶応4/明治元)年
-
谷干城(30-31歳)、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦い。板垣退助と共に藩兵を率い、出動。迅衝隊の小軍監として、北関東・会津戦争で活躍。3月、新選組から改名した甲陽鎮撫隊を甲州勝沼の戦いで破る。江戸開城で待機。4月、北上、日光山で旧幕府軍と対峙、今市の戦い。5月、土佐へ戻る。戦線へ復帰。会津へ向かう。8月、会津城籠城戦に加わる。11月、土佐へ凱旋。戦功として家禄400石に加増、仕置役に。
1869(明治3)年2月
-
板垣退助(31歳)、木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に、明治新政府の参与に。
1870(明治3)年
-
板垣退助(32-33歳)、高知藩の大参事に。人民平均の理を発令。
1870(明治3)年
-
谷干城(32-33歳)、少参事に。高知にて、藩政改革に尽力。東京の後藤象二郎と板垣退助による積極財政と浪費により、藩財政が傾く。これに反発、片岡健吉と共に費用削減を遂行、これが怒りを買い、藩政から排除される。しかし、浪費で財政が傾き、反対派から信望を集める結果に。
1871(明治4)年
-
板垣退助(33-34歳)、参議に。
1873(明治6)年10月24日-10月25日
明治六年政変、征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信、大木喬任ら。反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆ら。「岩倉遣欧使節団」派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことが大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。
閣議において、大隈重信、大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。
西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。
1873(明治6)年
-
板垣退助(35-36歳)、明治六年政変、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に、世論が沸騰。率先して征韓論を主張するも、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤、西郷隆盛らと共に下野。世論もこれを圧倒的に支持、倣って職を辞する官僚が600名あまりに及ぶ。自身と土佐派官僚が土佐で自由民権を唱える契機となる。
1873(明治6)年10月24日
-
江藤新平(39歳)、朝鮮出兵を巡る征韓論問題より発展した政変で、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に下野。
1873(明治6)年
-
谷干城(35-36歳)、熊本鎮台司令長官に。徴兵令を巡る対応が人事に絡み、反対派の桐野利秋が辞任。賛成派であったため、山縣有朋に任じられたという事情が。軍の近代化に取り組み、部隊にフランス式訓練を施す中、明治六年政変で板垣退助が下野したことで高知出身の軍人も多数下野。鎮台に出火騒ぎや部隊暴動が起こり、動揺をもたらした板垣退助との確執を強めていく。
1874(明治7)年1月10日
-
板垣退助(36歳)、『五箇条の御誓文』の「万機公論に決すべし」を根拠に、愛国公党を結成。後藤象二郎らと左院に民撰議院設立建白書を提出するも、却下される。
1874(明治7)年1月10日
-
江藤新平(39歳)、板垣退助らを中心に、日本初期の政治結社・愛国公党を結成。
1874(明治7)年1月12日
-
江藤新平(39歳)、愛国公党より政府に対し民撰議院設立建白書を提出。後藤象二郎、小室信夫、由利公正、岡本健三郎、古沢滋らと共に署名。佐賀への帰郷を決意。大隈重信・板垣退助・後藤象二郎らは、帰郷が大久保利通の術策に嵌るものであることを看破、慰留の説得を試みるも、全く耳を貸さず。翌13日、船便で九州へ向かう。
1874(明治7)年4月10日
-
板垣退助(36-37歳)、片岡健吉・山田平左衛門・植木枝盛・林有造らと共に、天賦人権を宣言。人民の知識の発達、気風の養成、福祉の上進、自由の進捗を目的に政治団体「立志社」結成。高知の自由民権運動の中心となる。また、近代的な教育・民権思想の普及を担う「立志学舎」創立。教員に、「慶應義塾」を卒業した江口高邦と深間内基、矢部善蔵を迎え、次いで土佐藩藩校教授だった塚原周造、久米弘行、森春吉が駆けつける。「慶應義塾」と同じカリキュラムが組まれ、フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの文明史、高水準の政治学、経済学、歴史学、地理学などを教授。法律研究所や新聞縦覧所を置き、『高知新聞』を発行するなど多様なかつ教育を行う。
1874(明治7)年
-
福澤諭吉(38-39歳)、明治六年政変で、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平が野に下るや、高知の「立志学舎」に「慶応義塾」門下生を教師として派遣。また、後藤象二郎の政治活動を支援、国会開設運動の先頭に立ち、『郵便報知新聞』に「国会論」と題する社説を掲載。
-
福澤諭吉、板垣退助の愛国社から頼まれ、『国会を開設するの允可を上願する書』起草に助力。
1875(明治8)年
-
伊藤博文(33-34歳)、盟友・井上馨と共に木戸孝允と大久保利通の間を取り結び、板垣退助とも繋ぎ、大阪会議を斡旋。
1875(明治8)年
-
板垣退助(37-38歳)、大阪会議、参議に復帰するも、民衆の意見が反映される議会制政治を目指し、間もなく辞任。再び自由民権運動に身を投じる。
1878(明治11)年
-
谷干城(40-41歳)、高知で自由民権運動が過激化することを憂う。急進的な民権派の政治団体「立志社」に対抗、佐々木高行と共に穏健な政治運動を標榜する中立社を立ち上げ。立志社の勢いに太刀打ち出来ず、廃社。
1881(明治14)年
-
板垣退助(43-44歳)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党結成。総理に。
1881(明治14)年
-
「三菱商業学校」、教員の馬場辰猪・大石正巳らが自由党の結成に参加。「三菱商業学校」校舎を使い、夜間教室「明治義塾」開設。土佐熱血漢達の自由民権思想普及の場として人気を集めるも、薩長閥の政府から睨まれることに。
1882(明治15)年4月
-
板垣退助(44歳)、自由党の党勢拡大に全国遊説中、岐阜にて暴漢・相原尚褧に襲われ、負傷(岐阜事件)。竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」。これがやがて、「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることに。
1882(明治15)年11月-1883(明治13)年6月
-
板垣退助(45-46歳)、後藤象二郎と洋行。
1884(明治17)年10月
-
板垣退助(47歳)、自由民権運動激化、加波山事件が起き、自由党を一旦解党。
1887(明治20)年5月
-
板垣退助(49-50歳)、自由民権運動家の立場より、華族制度に消極的な立場であり、授爵の勅を二度断っていた。しかし、三顧之礼を周囲から諭され、三度目にしてやむなく伯爵位を授爵。結果、衆議院議員となることはなく、また貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退したため、帝国議会に議席を持つことはなかった。
-
板垣退助、大同団結運動分裂後、帝国議会開設を控え、林有造らと共に愛国公党を再び組織。第1回衆議院議員総選挙に対応。
1890(明治23)年 - 1891(明治24)年
-
板垣退助(52-54歳)、帝国議会開設後、河野広中や大井憲太郎らと共に旧自由党各派(愛国公党、自由党、大同倶楽部、九州同志会)を統合、立憲自由党を再興。翌1891(明治24)年、自由党に改称。党総理に。
1896(明治29)年
-
板垣退助(58-59歳)、議会内で孤立していた自由党、第2次伊藤博文内閣と協力の道を歩み、内務大臣として入閣。続く第2次松方正義内閣においても留任するも、すぐに辞任。
1897(明治30)年
-
板垣退助(59-60歳)、自由党総理を辞任。
1898(明治31)年
-
板垣退助(60-61歳)、対立していた大隈重信の進歩党と合同、憲政党を組織。日本初の政党内閣である第1次大隈重信内閣に内務大臣として入閣。「隈板内閣」と呼ばれる。しかし、内紛激しく、4か月で総辞職せざるを得なくなる。
1898(明治31)年6月30日 - 11月8日
-
大隈重信(60歳)、 板垣退助らと憲政党を結成。薩長藩閥以外より初の内閣総理大臣に。日本初の政党内閣を組閣。「隈板内閣」と呼ばれる。旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じる。また、文部大臣・尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職、後任人事を巡り対立がさらに激化。後任の文部大臣文相に旧進歩党・犬養毅が就任したことに不満を持った旧自由党・星亨が、一方的に憲政党の解党を宣言。新たな憲政党を結成。加えて、アメリカのハワイ併合に対し、「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」とマッキンリー大統領に言わしめるような強硬姿勢を示して外交危機を招く。11月8日、内閣総辞職。旧進歩党をまとめ、憲政本党を率いることに。
1900(明治33)年
-
板垣退助(62-63歳)、立憲政友会創立と共に、政界引退。
1904(明治37)年
-
板垣退助(66-67歳)、機関誌『友愛』創刊。
1907(明治40)年
-
板垣退助(69-70歳)、全国の華族に向け、書面で華族の世襲禁止を問う活動を行う。
1913(大正2)年2月
-
板垣退助(75歳)、肥田琢司を中心に結成された立憲青年自由党の相談役に。
1914(大正3)年
-
板垣退助(76-77歳)、2度台湾を訪問、台湾同化会の設立に携わる。
1919(大正8)年7月16日
-
板垣退助(82歳)、死去。享年、82歳。「一代華族論」の主張から、嫡男・板垣鉾太郎を自ら廃嫡、家督相続を遅らせたため板垣家は華族の栄典を喪失。
