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ダイガクコトハジメ - 吉田松陰

吉田松陰

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  • 1830(文政13)年9月20日(旧暦・8月4日) 吉田松陰(1歳)、長州萩城下松本村(現・山口県萩市)に長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。

  • 吉田松陰、父・杉百合之助や兄・梅太郎と共に畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経を素読。文政十年の詔・神国由来、その他頼山陽の詩など、父が音読。後から兄弟が復唱。夜も仕事しながら読書。

  • 1834(天保5)年 吉田松陰(5歳)、叔父で山鹿流兵学師範・吉田大助の養子に。兵学を修める。

  • 1835(天保6)年 吉田松陰(6歳)、養父・吉田大助が死去。

  • 吉田松陰(9歳)、長州藩校・明倫館にて兵学師範に。

  • 吉田松陰(11歳)、長州藩主・毛利慶親へ御前講義。出来栄えが見事であり、その才能が認められる。

  • 1842(天保13)年 玉木文之進(33歳)、畳一間の私塾を開き、松下村塾と名付ける。少年だった甥・吉田松陰も入門。指導は非常に厳格なもので、吉田松陰が授業中、顔にとまった蚊を払って殴られた話が伝わる。親戚の乃木希典も教育を受ける。

  • 吉田松陰(13歳)、長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施。

  • 吉田松陰(15歳)、山田亦介に長沼流兵学を学ぶ。山鹿流、長沼流と江戸時代の兵学の双璧を修める。

1849(嘉永2)年3月 蘭書翻訳取締令

漢方医と蘭方医の対立が深刻化。漢方医側の政治工作もあり、蘭方医学の徹底的な取締開始。幕府医師の蘭方使用を禁止。全ての医学書は漢方医が掌握する医学館の許可を得ることに。

翌1850(嘉永3)年9月、蘭書の輸入が長崎奉行の許可制に。諸藩に対し、海防関係書の翻訳を老中および天文方に署名届出するものとした。蘭学に関する出版が困難に。蘭学の自由な研究が制約される。

  • 1850(嘉永3)年 佐久間象山(40歳)、大砲鋳造に成功、西洋砲術家としての名声を轟かす。蘭学を背景に、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功、牛痘種の導入も企図。再び江戸に移住、木挽町に五月塾創立。砲術・兵学を教える。勝麟太郎(勝海舟)吉田松陰、坂本龍馬、小林虎三郎、河井継之助、橋本左内、岡見清熙加藤弘之、山本覚馬ら後の俊才が続々と入門。

  • 吉田松陰アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知り、山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感。西洋兵学を学ぶため、九州遊学。次いで、江戸に出て佐久間象山安積艮斎、山鹿疎水、古河謹一郎らに師事。

  • 1852(嘉永5)年 吉田松陰(23歳)、宮部鼎蔵らと東北遊学を計画。出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形の発行を待たずに脱藩。水戸で会沢正志斎と面会。会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田で相馬大作事件の現場を訪ねる。津軽で津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとする。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受ける。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

  • 1853(嘉永6)年 佐久間象山(43歳)、ペリー来航。松代藩軍議役として浦賀の地を訪れる。報告を江戸幕府老中・阿部正弘に『急務十条』として奏上。この機に、吉田松陰に暗に外国行きを勧める。

  • 1853(嘉永6)年 吉田松陰(24歳)、ペリーが浦賀に来航。師・佐久間象山と黒船を遠望観察。西洋の先進文明に心を打たれる。同志・宮部鼎蔵に「聞くところによれば、彼らは、来年、国書の回答を受け取りにくるということです。その時にこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と書簡を送る。

  • 1853(嘉永6)年 吉田松陰(24歳)、師・佐久間象山の薦めもあり、外国留学を決意。同郷で足軽の金子重之輔と共に長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとする。クリミア戦争にイギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航、想いを果たせず。

  • 1854(嘉永7)年 吉田松陰(25歳)、日米和親条約締結の為にペリー再来航。金子重之輔と二人、海岸につないであった漁民の小舟を盗み、下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せて乗船。しかし、渡航拒否、小船も流される。下田奉行所に自首。伝馬町牢屋敷に投獄される。幕府の一部にて佐久間象山・吉田松陰両名を死罪にという動きもあったが、川路聖謨の働きかけで老中・松平忠固、老中首座・阿部正弘が反対。助命、国許蟄居に。長州へ檻送、野山獄に幽囚。ここで富永有隣、高須久子と知り合う。獄中にて、密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記す。

  • 1854(嘉永7/安政元)年 堀達之助(32歳)、米国東インド艦隊の再来航時にも活躍、米国側からも好評価を受ける。日米和親条約の翻訳にも関与。締結後、下田詰めに。下田滞在時にドイツ商人リュードルフが、ドイツ(プロイセン、オーストリアおよびドイツ関税同盟諸国)も米英露と同様の条約を締結したい旨を要求。書簡を幕閣に報告せず独断で処理しようとしたと咎められ、入牢処分に。この事件は冤罪と言われる。獄中、吉田松陰と文通。

  • 1854(嘉永7)年 - 1862(文久2)年 佐久間象山(44-52歳)、門弟・吉田松陰がペリー再来航の際に密航を企て、失敗。この事件に連座し、伝馬町牢屋敷に入獄。松代で蟄居。

  • 1855(安政2)年 吉田松陰(26歳)、出獄を許されるも、杉家に幽閉処分。

  • 1856(安政3)年9月20日(旧暦・8月22日) 吉田松陰(27歳)、禁固中の杉家にて、『武教全書』の講義開始。

  • 1857(安政4)年 吉田松陰(28歳)、叔父・玉木文之進が主宰する松下村塾の名を引き継ぎ、杉家隣の小屋を改装、8畳1間の松下村塾創立。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育、幕末より明治期の日本を主導した人材を数多く輩出。尊皇攘夷を旨とし、儒学、兵学、史学など広範な学問が教授される。一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」であった。

  • 高杉晋作、久坂玄瑞は「識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」と呼ばれる。また、吉田稔麿を入れて「松陰門下の三秀」と言い、さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称される。

  • 1857(安政4)年2月 伊藤博文(17歳)、江戸湾警備のため相模に派遣。上司として赴任した来原良蔵と昵懇に。その紹介で吉田松陰松下村塾入門。友人の吉田稔麿の世話になる。身分が低いため塾の敷居をまたぐこと許されず、戸外で立ったまま聴講。

  • 1858(安政5)年7月-10月 伊藤博文(18歳)吉田松陰の推薦により、長州藩の京都派遣に随行。

1858(安政5)年 - 1859(安政6)年 安政の大獄

幕府大老・井伊直弼や老中・間部詮勝らが、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印。また、将軍継嗣を徳川家茂に決定。これら諸策に反対する尊王攘夷家や一橋派の大名・公卿・志士らを弾圧。連座した者は100人以上に。

  • 1858(安政5)年 吉田松陰(29歳)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことに激怒。孝明天皇への弁明の為に上洛する老中首座・間部詮勝をとらえ、条約破棄と攘夷実行を迫り、それが容れられなければ討ち取るという間部要撃策を提言。計画実行のため大砲など武器弾薬の借用を長州藩に願い出るも拒絶される。

  • 1858(安政5)年 吉田松陰(29歳)、大原重徳と共に、参勤交代で伏見を通る長州藩主・毛利敬親を待ち受け京に入る。伏見要駕策への参加を計画。 野村和作らを除く、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎ら弟子の多くは反対もしくは自重を唱え、失望。間部要撃策や伏見要駕策における長州藩の対応に不信を抱くようになり、草莽崛起論を唱える。さらに、幕府が日本最大の障害になっていると批判、倒幕をも持ちかける。結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。

  • 1859(安政6)年 吉田松陰(30歳)、梅田雲浜が幕府に捕縛される。梅田雲浜の萩滞在時に面会していること、伏見要駕策を立案した大高又次郎と平島武次郎が梅田雲浜の門下生であった関係で、安政の大獄に連座。江戸檻送、伝馬町牢屋敷に投獄される。間部要撃策を自ら進んで告白、斬首刑が宣告される。

  • 1859(安政6)年 玉木文之進(50歳)、郡奉行に栄進するも、安政の大獄に甥・吉田松陰が連座。助命嘆願に奔走。

  • 1859(安政6)年11月21日(旧暦・10月27日) 吉田松陰(30歳)、伝馬町牢屋敷にて死刑。享年30歳。

  • 1859(安政6)年10月 伊藤博文(19歳)、安政の大獄、師匠・吉田松陰が斬首刑に。桂小五郎の手附として江戸詰めしており、師の遺骸を引き取ることに。この時、自分がしていた帯を遺体に巻く。

 

吉田松陰

よしだしょういん

1830(文政13)年9月20日(旧暦・8月4日) - 1859(安政6)年11月21日(旧暦・10月27日)

兵学者、思想家、松下村塾創立

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