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ダイガクコトハジメ - 高田早苗 - 大学の始まり物語

高田早苗

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高田早苗

  • 高田早苗|大学事始「大学の 始まり”物語。」

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)​

「大隈重信の右腕、早稲田初代学長」

高田早苗の大学”始まり”物語

​​​​​​

序章 江戸に生まれ、知の才を発揮する

 

 幕末の動乱が終焉を告げる1860年、武蔵国江戸深川。高田早苗は旧幕臣の家に生まれ、幼い頃よりその聡明さを示していました。明治新政府樹立という日本の大きな変革期を迎える中、彼は早くから近代教育の道を進みます。9歳で共立学校(現・開成中学校・高等学校)に入学。その後、官立の東京英語学校で英語を学び、西洋の学問への基礎を築いていきました。

 日本の最高学府として
東京大学が創立された後の1878年、19歳になった高田早苗は大学予備門を経て東京大学文学部に入学します。ここで彼は、その後の日本の歴史を動かす多くの若き俊英たちと出会いました。同級に生涯の親友となる坪内逍遥、そして天野為之市島謙吉といった、共に「早稲田四尊」と称されることになる生涯の同志たちがいました。この若き日の出会いが高田早苗の思想形成に大きな影響を与え、早稲田大学誕生の重要な幕開けとなるのです。彼らは互いに切磋琢磨し、日本の将来を担うという強い志を共有していきました。

第一章 政変の渦中、教育者としての覚醒

 

 高田早苗が東京大学で学究の日々を送る中、日本の政局は激動していました。1881年、後に彼の生涯の師となる大隈重信は、国会開設の時期や形式を巡り政府内で孤立していました。当時急進的過ぎるとされたイギリス型政党内閣制案を独自に提出したこと、また「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対論者であったことから、同志であったはずの伊藤博文ら薩長勢と対立します。そして「明治十四年の政変」によって政府から追放され、下野するという大事件が勃発しました。この政変を機に、大隈重信の腹心であった小野梓も官職を辞し、在野の立場から「学問の独立」の実現に動き出します。

 明治十四年の政変後、政府の政治方針に批判的で近代政治思想を渇望する
東京大学の学生たちは、小野梓が設立した政治結社「鷗渡会(おうとかい)」に結集していました。高田早苗もまた、天野為之市島謙吉坪内逍遥らと共にこの鷗渡会に加わります。1882年、23歳になった高田早苗は東京大学文学部を卒業。同年、大隈重信小野梓と共に結成した立憲改進党に参加。卒業後すぐに政治活動に身を投じることになります。

 学校設立への具体的な構想が動き出すのは、1882年4月。
大隈重信より、婿養子・大隈英麿が発案した理学学校設立構想の是非について鷗渡会メンバーに相談が持ちかけられます。協議の結果、理学学校ではなく、来るべき立憲政治の指導的人材養成を主目的とする政治経済や法律を教授する学校を設立すべしと方針転換。鷗渡会がその創立を全面的に支援することになりました。そして1882年10月21日、大隈重信の英国流の近代国家建設という政治展望の一事業として、東京専門学校が創設されます。小野梓が「学問の独立」を宣言したこの学校に、高田早苗は創立メンバーとしてその経営に参画。自ら講師として教壇に立ち、多くの講座を担当するなどその教育者としての情熱を学校運営に注ぎ込みました。
 

第二章 学園の要、そして政治の舞台へ

 「学問の独立」を掲げながらも、明治新政府から立憲改進党系の学校と見做されて厳しい監視と妨害・圧迫に晒されます。判事・検事および東京大学教授の出講禁止措置など、講師確保にも窮する状況が続きます。東京専門学校は創設早々に廃校の危機に直面しました。大隈重信が政治的影響力で学校を守り、小野梓が病と闘いながら実務を主導。二人三脚で学校存続に奔走する中で、高田早苗もその苦難を乗り越えるべく尽力しました。

 しかし、
大隈重信小野梓の二人三脚は長くは続きませんでした。1886年、小野梓は志半ばで夭折します。創設期にあって、かけがえのない同志を失う痛恨の出来事を経験します。しかし、東京専門学校の「学問の独立」の志は揺るぎません。小野梓の死後、大隈重信の「右腕」として学校運営の中心を担ったのが高田早苗でした。彼は前島密鳩山和夫と校長が交代する中にあって、常に学園の主要な教員・経営者として活動を続けました。

 東京専門学校での教育活動と並行し、高田早苗の言論活動も続きます。1887年から読売新聞の主筆を務め、社会に影響を与える役割を担いました。そして1890年、31歳になった高田早苗は国会開設に合わせ行われた第1回衆議院議員総選挙に埼玉二区から立候補。全国最年少で当選します。国政の舞台に進出、政治家としての役割も果たすことになります。読売新聞主筆の座は市島謙吉が引き継ぎ、天野為之もまた国政の舞台で活躍を始めるなど、同志たちの活躍は続きました。

 高田早苗は衆議院議員として通算6期務め、政治家としてのキャリアを着実に積み重ねていきます。1897年には大隈重信と連立した第2次松方正義内閣にて、外務省通商局長に就任。1898年には日本初の政党内閣となった第1次大隈重信内閣で、文部省参事官・高等学務局長・参与官兼専門学務局長を歴任。政治の面でも大隈重信の「右腕」として教育行政の中枢を担い、国家の教育政策に深く関与しました。この頃、1900年には東京専門学校に大学部を設置。高田早苗が初代学監に就任。1901年には法学博士の学位も取得し、学術的な権威を確立します。彼の学識・教育手腕、そして政治的手腕が着実に花開いていく時期でした。

 

終章 早稲田大学初代学長、そして不朽の精神

 

 1902年、東京専門学校は専門学校令に基づき「早稲田大学」に改称。高田早苗が経営と教育に深く関わる学園は、名実ともに新たな段階へ移行します。1907年に総長・学長制を敷くと、政界を引退していた大隈重信早稲田大学初代総長に就任。高田早苗は48歳にして早稲田大学初代学長に就任します。彼が大隈重信との二人三脚にて、学園の最高責任者としてその経営を担うことを意味しました。

 学長として大学の発展に尽力する傍ら、『早稲田大学教旨』の草案作成にも携わります。しかし1915年、政界に復帰した大隈重信の第二次内閣にて文部大臣に就任するため、学長を辞任することとなります。これに伴い、天野為之早稲田大学第2代学長に就任しました。

 そして1917年、彼のキャリアにおける最大の試練、「早稲田騒動」が発生します。第二次大隈重信内閣の瓦解により文部大臣を辞任、高田早苗は再び学長復帰を目指します。このことで、現学長・天野為之らと対立。騒動は新聞報道、学生や世論をも巻き込む一大騒乱へと発展。結果、高田早苗は学園の要職から一時的に離れることになります。これは、早稲田大学の「学問の独立」の精神が、組織の成長過程で直面した「自立への試練」の象徴でした。

 後に高田早苗は再び学園の要へと返り咲きます。1923年、64歳になった彼は早稲田大学第3代総長に就任。騒動を経て、再び学園の最高責任者としてその手腕を発揮します。1925年には、仮放送を開始したばかりのラジオに出演し、『新旧の弁』と題する講演を行うなど日本最初の教育放送を担い、社会教育の普及に貢献しました。1928年には帝国学士院会員に選出され、その学術的功績が公的に認められます。

 1938年12月3日、高田早苗は79歳でその生涯を閉じました。大隈重信の教育事業・政治活動を「右腕」として支え続け、「早稲田四尊」の一人としてその名を刻むこととなったのです。

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