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ダイガクコトハジメ - 高島嘉右衛門

高島嘉右衛門

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高島嘉右衛門

たかしまかえもん

1832(天保3)年11月22日(旧暦・11月1日) - 1914(大正3)年10月16日

事業家、藍謝堂(高島学校)創立、「易聖」

「高島嘉右衛門」に関する書籍 [外部]

  • 1832(天保3)年11月22日(旧暦・11月1日) 高島嘉右衛門(1歳)、江戸三十堀間町(現・東京都中央区銀座)に薬師寺嘉衛門(遠州屋嘉衛門)と母くにの第六子として生まれる。父・薬師寺嘉衛門は、常陸国新治郡牛渡村出身で、江戸に出て材木店・遠州屋を始める。

  • 高島嘉右衛門(幼少期)、父・薬師寺嘉衛門の教えに従い、四書五経や六諭衍義などを学ぶ。何度か読めばすべて覚えてしまうほど、記憶力が良かった。

  • 1845(弘化2)年 高島嘉右衛門(14歳)、家業の材木商兼普請請負業や盛岡藩製鉄事業に従事。

  • 1850(嘉永3)年 高島嘉右衛門(19歳)、父・薬師寺嘉衛門を亡くす。棄捐令による影響や次姉養子の放蕩により、莫大な借金があることがわかり、その返済に奔走。遠州屋嘉兵衛襲名。

  • 1853(嘉永6)年 高島嘉右衛門(22歳)、材木屋を始める。

  • 高島嘉右衛門、安政の大地震の数日前、周りで奇異が起き、理由なく釜が鳴ったのを聞き、幼少時に学んだ易経に従って卦を立てる。「火」に関する卦を得たため、大火が起こることを予知、大量の材木を買収。数日後に安政の大地震発生。

  • 高島嘉右衛門、安政の大地震にて江戸に大火。被害を受けた佐賀藩邸の普請や材木の売却により2万両の儲けを得て、負債の返済を終える。しかし、盛岡藩藩邸普請の際に暴風雨に見舞われ材木の流出や盛岡藩の支払い拒否があり、却って2万両の負債を抱えることになる。

  • 1859(安政6)年 高島嘉右衛門(28歳)、佐賀藩家老・田中善右衛門の斡旋により、横浜に伊万里焼の磁器や白蝋を一手に販売する肥前屋を開店。その際、外国人を相手に、国内と国外の交換比率の違いを利用して金貨を売り、多めに銀貨を受け取って儲けていたが、禁法だったため目を付けられ、潜伏するも後に自首。鉱山採掘にも手を出しており、外国人相手にご禁制の小判を密売した罪で逮捕。

  • 1860(安政7/万延元)年 高島嘉右衛門(29歳)、投獄。入獄中、牢内の古畳の間から易経が出てくる。易経を暗誦できるまで読みふけり、紙縒りを作って筮竹として占う。江戸所払いに。高島嘉右衛門に改名。

  • 高島嘉右衛門、江戸所払いになったため、横浜へ。材木商を始める。アメリカ公使を介し、イギリス公使のハリー・パークスから公使館建築を請け負う。設計は、リチャード・ブリジェンス。これをきっかけに、多くの外国人から建築依頼を受けるように。

  • 1867(慶応3)年 高島嘉右衛門(36歳)、当時横浜に政府高官や外国人を受け入れる旅館がなく、尾上町に豪華な和洋折衷の大旅館・高島屋を建設。政府高官ほか人脈を作る社交場としても利用される。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 高島嘉右衛門、盛岡藩が官軍に抵抗したため、政府より締め付けのため70万両の献金を求められる。相談を受け、飢饉の問題などもあったが、「至誠奉公の大精神」で救済、盛岡藩と領民を救う。

  • 1869(明治2)年12月7日(旧暦・11月5日) 大隈重信(32歳)伊藤博文と共に日本発の鉄道敷設を計画。右大臣三条実美の東京邸宅にて、岩倉具視・沢宣嘉・大隈重信伊藤博文の4者がパークスと非公式に会談、鉄道計画を相談。事前にパークスと協議した脚本通りに進行。岩倉具視・沢宣嘉の賛同を得る。12月12日(旧暦・11月10日)、鉄道敷設が正式に廟議決定。

  • 1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日) 大隈重信(33歳)、殖産興業を推進する工部省を民部省より分離。

  • 1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日) 伊藤博文(30歳)山尾庸三と共に工部省設立に尽力。鉄道技師長エドモンド・モレルの提案を受け、お雇い外国人技術者に頼るのではなく日本人技術者を養成すべきとし、教務部併設を主張。太政官制度の下、日本近代化のための社会基盤整備と殖産興業推進を目的とする中央官庁として、工部省設置。​初代工部卿として、殖産興業を推進。殖産興業は後に、内務卿・大久保利通の下、内務省へと引き継がれる。

  • 1870(明治3)年 高島嘉右衛門(39歳)、伊藤博文大隈重信に京浜間鉄道敷設の必要性を説明。後に、大隈重信より鉄道敷設事業参加の打診があり、線路短縮のために横浜港埋め立て(現・西区野毛町〜神奈川区青木町)を実行。埋め立て開発者は鉄道線路を除きその土地を永代拝領するという条件が新政府から出されていたが、それを政府に献上、その偉業を称えて高島町と名づけられる。

  • 1871(明治4)年3月 大倉喜八郎(35歳)、新橋駅建設工事の一部を請け負う。同じ頃、高島嘉右衛門らと共に横浜水道会社を設立、建設工事に着工。

  • 1871(明治4)年 高島嘉右衛門(40歳)、スイス人カドレー・アメリカ人バラ兄弟など西洋人の教師を雇い、英仏独の3ヶ国語を教授。横浜伊勢山下と入船町に語学私塾・藍謝堂(高島学校)開校。私財3万円を投じ、敷地は一万坪、学生1,000人が収容できる大きな学校であった。福澤諭吉を招聘したが実現せず。代わりに慶応義塾の海老名晋・荘田平五郎小幡甚三郎濱尾新・日原昌造ら高弟を講師に推薦、派遣される。岡倉天心・寺内正毅・本野一郎・宮部金吾・星亨ら人材を輩出。貧しい学生には経済的援助も行う。

  • 高島嘉右衛門、下水改良工事を手掛ける。

  • 1872(明治5)年 伊藤博文(32歳)、大蔵兼民部少輔として大隈重信と共に殖産興業政策を推進。鉄道建設を強力に推し進める。京浜間の鉄道は、品川 - 横浜間で仮営業を始め、新橋までの全線が開通。​

  • 1872(明治5)年 高島嘉右衛門(41歳)、ドイツの商会が神奈川県のガス会社建設の申請。外国に権益を奪われることを憂い、数名と日本社中結成。ガス会社建設の権利を得て、フランス人技師を招き、日本で初めてのガス会社となる横浜瓦斯会社設立。横浜の地にガス灯を灯す。

  • 1873(明治6)年 高島嘉右衛門(42歳)、藍謝堂(高島学校)設立の功により、明治天皇から三組の銀杯を下賜される。

  • 1873(明治6)年11月11日 高島嘉右衛門(42歳)藍謝堂(高島学校)を横浜市に寄付。川村敬三の同文社と合併。野毛山に新校舎を設立、横浜市学校と改められる。

  • 1874(明治7)年 高島嘉右衛門(43歳)、東京でのガス燈建築を計画。横浜の灯台寮に行幸した明治天皇は、ガス局を視察、宮内卿を通じて「ガス灯の建築は未曾有の偉業である」との意を伝える。民間人で天皇に拝謁を許された最初に。

  • 1874(明治7)年 高島嘉右衛門(43歳)、横浜港〜函館港間の定期航路開通。採算が合わず、中止。

  • 1874(明治7)年3月 高島嘉右衛門(43歳)藍謝堂(高島学校)焼失。学生は、慶応義塾開成学校へ転籍。

  • 1876(明治9)年 高島嘉右衛門(45歳)、大綱山荘(現・横浜市神奈川区高島台)に一時隠棲。

  • 1876(明治9)年 高島嘉右衛門(45歳)、隠棲後、易の研究を行い、易占に関する講義や著述を行う。易断の集大成ともいえる著作『高島易断』は漢訳され、袁世凱・李鴻章など清の知識人たちにも贈られる。易を一種の宗教とと捉え、英訳させた上、アメリカ・シカゴで開催された世界宗教大会に提出。

  • 1877(明治10)年 高島嘉右衛門(46歳)、ガス局より功労金を受け取ったことが問題に。市民を巻き込む訴訟騒ぎに。

  • 1885(明治18)年 高島嘉右衛門(54歳)、神易堂建設。孔子祭を行う。

  • 1887(明治20)年 高島嘉右衛門(56歳)、海防費1万円を献納。従五位勲四等に叙せられる。

  • 高島嘉右衛門、愛知セメント設立。

  • 1888(明治21)年 高島嘉右衛門(57歳)、日本に亡命した朴泳孝を別邸に住まわせる。

  • 1888(明治21)年 高島嘉右衛門(57歳)、北海道炭礦鉄道の社長就任。石狩・十勝で拓殖事業を行う。

  • 1893(明治26)年 高島嘉右衛門(62歳)、一家で北海道に移住。

  • 高島嘉右衛門、東京市街鉄道社長に。

  • 高島嘉右衛門、清水次郎長の開拓した富士の裾野を購入。

  • 1896(明治29)年 高島嘉右衛門(65歳)、帝国貯蓄銀行の開業に関わる。

  • 1896(明治29)年 高島嘉右衛門(65歳)、跡を継いだ高島嘉兵衛が破産。

  • 1914(大正3)年10月16日 高島嘉右衛門(83歳)、死去。享年83歳。ほとんどの事業で卦を立て、それに従って成功してきたとされる。政府高官も征韓論など政治の重要な事で占ってもらう者が多かったという。「易聖」と呼ばれる。

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