ダイガクコトハジメ - 阪田貞一
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牧野啓吾
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阪田貞一
さかたていいち
1857(安政4)年10月14日(旧暦・8月27日) - 1920(大正9)年12月1日
東京工業学校教授・第2代校長、東京高等工業学校第2代校長、早稲田大学理工科創立・理工科長
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1857(安政4)年10月14日(旧暦・8月27日) 阪田貞一(1歳)、江戸に生まれる。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
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阪田貞一、工部大学校卒業。
1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学令
高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。初代総長に渡辺洪基を勅任。
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阪田貞一、帝国大学工科大学で教える。
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1890(明治23)年 阪田貞一(34歳)、欧米留学、機械工学を研究。
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1890(明治23)年 手島精一(41歳)、病気がちであった正木退蔵に代わり、東京職工学校第2代校長に。生徒たちに評判の悪かった校名を、東京工業学校に改称。学校規則改正、地方入試制度や尋常中学校卒業生のうち工業関係科目で優秀な者の無試験入学制度を設けるなど、高等教育機関としての格付けに尽力。学校運営は安定期に入り、入学者数増加。職工長・工師・教員・企業家養成を中心とする工業教育の指導的機関へと発展。
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阪田貞一、帰国後、東京工業学校教授に。
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1909(明治42)年9月、早稲田大学、大学部理工科(機械学科・電気学科)創設。
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1909(明治42)年 阪田貞一(53歳)、早稲田大学理工科理工科長に。
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1916(大正5)年9月22日 手島精一(67歳)、東京高等工業学校校長辞任。名誉教授の称号を授けられる。校長として25年の長きにわたり、産業の近代化に沿った学科設備の拡充と教育レベルの引き上げを行い、日本各地の工業学校指導者・産業界のリーダーを数多く輩出。
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1916(大正5)年 阪田貞一(60歳)、東京高等工業学校第2代校長に。
1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 大学令
原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における帝国大学と別種の「大学」を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。
その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認める。
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1919(大正8)年1月-2月、東京高等工業学校、蔵前工業会臨時総会で大学昇格を決議。翌2月、日本工業倶楽部も建議書を政府に提出。
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1920(大正9)年12月1日 阪田貞一(64歳)、死去。享年64歳。
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