ダイガクコトハジメ - 西村茂樹
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西村茂樹
にしむらしげき
1828(文政11)年4月26日(旧暦・3月13日) - 1902(明治35)年8月18日
思想家、明六社設立発起人、東京修身学社(現・社団法人日本弘道会)創立、貴族院議員、華族女学校校長、文部省編輯局長
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1828(文政11)年4月26日(旧暦・3月13日) 西村茂樹(1歳)、江戸の佐野藩邸に佐倉藩の支藩・野藩堀田家に仕える西村芳郁の子として生まれる。幼名、平八郎。
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西村茂樹(10歳)、佐倉藩校・成徳書院に入学。佐倉藩が招いたた安井息軒より儒学を学ぶ。
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1850(嘉永3)年 西村茂樹(23歳)、大塚同庵に師事、砲術を学ぶ。
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1850(嘉永3)年 佐久間象山(40歳)、大砲の鋳造に成功、西洋砲術家として名声を轟かす。蘭学を背景に、ガラス製造、地震予知器開発に成功。牛痘種の導入も企図。木挽町(現・東京都中央区銀座)に五月塾創立。砲術・西洋学を講じる。勝麟太郎(勝海舟)、吉田松陰、坂本龍馬、小林虎三郎、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、山本覚馬ほか幕末・明治維新に影響を与えることになる人材が続々と入門、門下は数百人に及ぶ。
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1851(嘉永4)年 西村茂樹(24歳)、佐久間象山に砲術を学ぶ。
1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)
アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。
1853(嘉永6)年 安政の改革
黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所を設置。
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1853(嘉永6)年 西村茂樹(26歳) 、ペリー艦隊来航に衝撃を受け、佐倉藩主・堀田正睦に意見書を提出。老中・阿部正弘にも海防策を献じる。
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1856(安政3)年 西村茂樹(29歳)、佐倉藩主・堀田正睦が老中首座・外国事務取扱に。貿易取調御用掛に任じられ、外交上の機密文書を担当。
1873(明治6)年7月 明六社結成
アメリカより帰国した森有礼、富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と提言。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる明六社結成。初代社長に。会員には旧幕府官僚、開成所の関係者および慶應義塾門下生の官民調和で構成される。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。
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1874(明治7)年3月 森有礼(28歳)、明六社にて機関誌『明六雑誌』発行。開化期の啓蒙に指導的役割を果たす。翌1875(明治8)年、太政官政府の讒謗律・新聞紙条例が施行。機関誌発行は43号で中絶・廃刊、事実上解散。後に、明六社は明六会となり、福澤諭吉を初代会長とする東京学士会院、帝国学士院を経て、日本学士院に至る。
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1874(明治7)年 西村茂樹(47歳)、漢字廃止論者として、『開化ノ度ニ因テ改文字ヲ発スベキノ論』発表。
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1875(明治8)年3月 西村茂樹(48歳)、大槻磐渓、依田學海、平野重久らと、漢学者の集まり洋々社結成。
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1875(明治8)年3月 西村茂樹(48歳)、『明六雑誌』にて『修身治国非二途論』発表。
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1875(明治8)年 西村茂樹(48歳)、10年間、天皇・皇后への進講を務める。
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1876(明治9)年 西村茂樹(49歳)、東京脩身学社(現・社団法人日本弘道会)創立。
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1879(明治12)年 西村茂樹(52歳)、自身発案により、日本最大にして唯一の官撰百科事典『古事類苑』編纂開始。
1879(明治12)年 東京学士会院設立
文部卿・西郷従道の発案に基づき、研究者による議論や評論を通じ学術の発展を図ることを目的とする政府機関・東京学士会院が設立される。当時の日本を代表する知識人とされた加藤弘之・神田孝平・津田真道・中村正直・西周・福澤諭吉・箕作秋坪が創立会員7名に。初代会長は、福澤諭吉。
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西村茂樹、東京学士会院会員に。
1884(明治17)年7月7日 華族令
制度取調局局長・伊藤博文を中心に制定。華族を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵に区分。旧公家の華族は家格により、旧大名の華族は石高により爵位受爵。また、国家に勲功ある者を新たに華族に列する。爵位は代々世襲される(永世華族)。1889(明治22)年貴族院令にて、同爵の互選により貴族院議員となる特権を持つ。華族令制定直後の7月中に509名の有爵者が誕生。
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1885(明治18)年8月、四谷区尾張町に華族女学校開校。
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西村茂樹、華族女学校校長に。
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1887(明治20)年 西村茂樹(60歳)、『日本道徳論』刊行。日本の近代教育制度が整備されつつある中、国民教育の根本精神が重要な問題として議論されるように。首相・伊藤博文をはじめとする極端な欧化主義的風潮を憂慮。日本道徳の再建の方途として、伝統的な儒教を基本に、西洋の精密な学理を結合させるべきと説く。国家の根本は制度や法津よりも国民の道徳観念にあるとし、勤勉・節倹・剛毅・忍耐・信義・進取・愛国心・天皇奉戴の8条を国民像の指針として提示。文部大臣・森有礼はこれを読んで大いに賛成するも、伊藤博文首相は新政を誹謗するものとして怒り、文部大臣を詰責。
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1888(明治21)年 津田梅子(25歳)、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日。留学を薦められ、再度の留学を決意。父・津田仙の知人、日本の商業教育に携わっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘・クララの仲介により、留学希望を伝え学費免除の承諾を得る。華族女学校校長・西村茂樹より、2年間の留学を許可される。
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西村茂樹、貴族院議員に。
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西村茂樹、宮中顧問官に。
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1889(明治22)年 西村茂樹(62歳)、皇室が徳育を管理する明倫院を設置するよう、宮内省に建議。
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西村茂樹、文部省編輯局長に。教科書の編集や教育制度の確立に尽力。
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1902(明治35)年8月18日 西村茂樹(75歳)、死去。享年75歳。
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