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ダイガクコトハジメ - 相馬永胤

相馬永胤

出身校

  • ミシガン州農学校

  • ニューヨーク州ピークスキル学院

  • コロンビア法律学校(現・コロンビア大学ロースクール)

  • イェール大学大学院

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年表 | 動画

相馬永胤

そうまながたね

1850(嘉永3)年12月25日(旧暦・11月22日) - 1924(大正13)年1月26日

司法省・大蔵省、代言人・判事、日本法律会社結成、慶應義塾夜間法律科設立・講師、三叉学舎法律経済科設立・講師、専修学校(現・専修大学)創立、私立専修大学初代学長、衆議院議員、横浜正金銀行頭取

「相馬永胤」に関する書籍 [外部]

  • 1850(嘉永3)年12月25日(旧暦・11月22日) 相馬永胤(1歳)、近江国犬上郡彦根尾末町に彦根藩士の子として生まれる。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

 

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 相馬永胤、戊辰戦争にて官軍方彦根隊として奮闘。

  • 明治維新後 相馬永胤、安井息軒に学ぶ。

  • 1871(明治4)年 相馬永胤(22歳)、明治新政府より彦根藩からの欧米視察員に選ばれるも、予期せぬ事情によりと渡航不可に。藩邸に願い出、彦根藩費留学生として渡米。ミシガン州農学校で学ぶ。

  • 1871(明治4)年 田尻稲次郎(22歳)、刑部省国法民法課勤学の資格を得て、渡米留学。ニューブランズウィック大学予備校入学。後に、ハートフォード高等学校に転じる。

  • 1872(明治5)年9月 目賀田種太郎(20歳)、渡米、ハーバード法律学校(現・ハーバード大学)入学。入学規定であった「キリスト教徒であること」に異を述べ、入学許可を得る。

  • 1873(明治6)年 九鬼隆一(22歳)、当時日本の教育予算のうち40%弱が海外派遣260名の留学費用に充てられていた。文部省は留学を打ち切り、その費用でお雇い外国人を招聘することを考えていた。留学生は薩長土肥の高官や明治維新の功績者の子弟が中心であり、特権的な留学による身分の固定化への危惧や優秀な学生の機会獲得のため、文部省の方針に積極的に賛同。留学生実態調査と帰国説明・説得に当たるため、渡欧。井上毅・井上和郎など強い反発を受けるも、中江篤介(後に中江兆民)の理解などもあり、最終的に留学生全員の承諾を得ることができる。

  • 1873(明治6)年12月 相馬永胤(24歳)、文部省より一斉帰国命令、やむなく一時帰国。

  • 1873(明治6)年 田尻稲次郎(24歳)、留学生一斉帰朝命令の際、ハートフォード高等学校校長はじめ篤志の援助で勉学続行。翌年、イェール大学入学。経済学・財政学を学ぶ。タフト米国大統領と親交、駐米公使・吉田清成に日本の財政改革を訴える意見書提出。

  • 1874(明治7)年12月 駒井重格(23歳)、旧桑名藩主・松平定敬父子に随伴し、アメリカ留学。ニューブランズウィック大学予備門で学んだ後、ラトガース大学で経済学を学ぶ。英語のほか、フランス語にも熟達。渡米中、同じく経済学を学ぶ相馬永胤田尻稲次郎目賀田種太郎と親交。​

  • 1875(明治8)年6月 相馬永胤(26歳)、再渡米、ニューヨーク州ピークスキル学院商業課程卒業。10月、コロンビア法律学校(現・コロンビア大学ロースクール)入学。同期の日本人留学生に、徳川御三卿清水家当主・徳川篤守、鳩山和夫ほか、文部省の留学生監督に目賀田種太郎

  • 相馬永胤、図書館で判例を精読、模擬裁判にて米人学生に伍して活躍。

  • 1875(明治8)年 目賀田種太郎(23歳)文部省の留学生監督となり、再渡米。東京開成学校の生徒9人(鳩山和夫・小村寿太郎・菊池武夫・斎藤修一郎・長谷川芳之助・松井直吉・原口要・平井晴二郎・南部球吾)を引き連れる。後に政財界・教育界で活躍する俊英揃いであった。自身もハーバード法律学校で法律を学ぶ。

  • 1875(明治8)年 相馬永胤(26歳)、渡米留学中の法学徒が集うクラブ・研究会で、討論会などを開き演説の練習や法律語彙の翻訳を行う日本法律会社結成。中心的役割を担う。専修学校の土台に。1月21日の日記に「われわれが帰国後、われわれの法律上の計画を実行しようというのが、わが法律クラブの目的である」と記す。​

  • 相馬永胤、コロンビア法律学校卒業後、イェール大学大学院入学。法律学・経済学を学ぶ。また、ボードウィン教授の法律事務所で実務を身につける。経済学クラスにて、終生の同志となる田尻稲次郎と出会う。

  • 相馬永胤、留学中の田尻稲次郎箕作秋坪の子・箕作佳吉らと共に学術クラブ・興学社結成。法律と経済の環を繋ぐ。

  • 相馬永胤、内務省よりアメリカの商業事情調査に派遣されていた神鞭知常、ラトガース大学で経済学を学んでいた駒井重格と出会う。​

 

1876(昭和9)年 代言人資格試験制度・私立法律学校発足

江戸時代において”法律”はお上が制定・運用するものであり、法や法律に関する研究・出版を行うことは「お上を誹謗する振る舞い」として厳しく制限、法律学が独立した学問分野として成立することはあり得なかった。しかし、明治時代に入って欧米社会に進出。欧米各国と対等に付き合うため、法典や司法制度など整備が急務となった。官立法学校として1871(明治4)年に司法省明法寮(後に司法省法学校)・1877(明治10)年に東京大学法学部が設置され、法律・法学の教育・研究が進められる。

法典整備に先行し、近代的裁判制度が発足。代言人(現・弁護士)の資格試験制度が成立。このため、法律実務を担う法律家の育成が急務となるも、官立2学校だけでは人材需要を十分にまかなうことができず。各地に試験準備のための私立法律学校が開校。私立大学発足の一大源流となる。

  • 東京大学法学部ではボアソナードらフランス人御雇教師によりフランス法学が講じられ、司法省明法寮(後に司法省法学校)では英米人御雇教師により英米法が講じられる。このことがフランス法学派と英米法学派の対立、後の民法典論争に大きく影響する。また、官立両法律学校はフランス語・英語それぞれに習熟している者でなければ十分に学ぶことは不可能であった。

1877(明治10)年4月12日 東京大学創立

東京開成学校本科東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。

法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。

  • 1879(明治12)年 相馬永胤(30歳)、日本に帰国。司法省出仕、代言人に。次いで判事に任じられるも辞職。目賀田種太郎と共同で東京市京橋区(現・東京都中央区)に法律事務所を開設。事務所の2階に、やはり米国から帰ったばかりの田尻稲次郎駒井重格が寄宿。4人で起居を共にし、法律学校設立の準備に動き出す。

  • 1879(明治12)年9月 駒井重格(28歳)、帰国。江木高遠・鈴木智雄と共に、東京府第一中学英語教諭に。また、専修学校創立に参加。​

  • 1880(明治13)年1月 相馬永胤(31歳)、渡米中に箕作秋坪の子・箕作佳吉らと共に学術クラブ・興学社を起こした縁より、箕作秋坪の協力を得る。英学私塾・三叉学舎に法律経済科を設立。講師に。

  • 1880(明治13)年6月 目賀田種太郎(28歳)、司法省附属代言人の最初の3人の一人に。東京代言人組合(現・東京弁護士会)会長に。

  • 1880(明治13)年6月 相馬永胤(31歳)、司法省附属代言人の最初の3人の一人に。

1880(明治13)年 代言人資格試験制度の厳格化 

日本最初の近代法として刑法・治罪法制定。代言人(現・弁護士)規則改正により資格試験が厳格化。司法省法学校東京大学法学部の卒業者や欧米留学経験者、官職者らの手により、本格的な私立法律学校が設立されるように。

  • 1885(明治18)年 相馬永胤(36歳)、横浜正金銀行取締役に。横浜正金銀行内外法律顧問を歴任。

  • 1890(明治23)年 相馬永胤(41歳)、第1回衆議院議員選挙に郷里の滋賀県から出馬。当選。

  • 1897(明治30)年 相馬永胤(48歳)、横浜正金銀行頭取に。

1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令

中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。

予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。

  • 1903(明治36)年11月、専修学校、専門学校令に基づき、専門学校の認可を受ける。

  • 1906(明治39)年9月、専修学校、学則改正、大学部経済科・法律科・商科を設置。修業年限3年。あわせて、専門部・高等専攻部、専門学校令による昼間の高等予科設置。

1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 大学令

原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における帝国大学と別種の「大学」を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。

その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認める。

  • 1922(大正11)年5月、専修大学、大学令に基づき、大学昇格。専門学校令による専門部を併設。

  • 1922(大正11)年10月30日 相馬永胤(73歳)、文部省学制頒布50年記念祝典にて、専修学校創立メンバーの田尻稲次郎と共に、教育功労者として表彰される。この日を専修大学の大学記念日とし、今日に至る。

  • 1924(大正13)年1月26日 相馬永胤(75歳)、死去。享年75歳。

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