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杉亨二

杉亨二

 

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  • 1828(文政11)年9月10日(旧暦・8月2日) 杉亨二(1歳)、 肥前国長崎(現・長崎県長崎市)に杉泰輔の長男として生まれる。

  • 杉亨二、 大村藩医・村田徹斎の書生に。

  • 1848(弘化5/嘉永元)年 杉亨二(21歳)、 緒方洪庵適塾に入るも、病のため帰国。

  • 1850(嘉永3)年 佐久間象山(40歳)、大砲の鋳造に成功、西洋砲術家として名声を轟かす。蘭学を背景に、ガラス製造、地震予知器開発に成功。牛痘種の導入も企図。木挽町(現・東京都中央区銀座)に五月塾創立。砲術・西洋学を講じる。勝麟太郎(勝海舟)吉田松陰、坂本龍馬、小林虎三郎、河井継之助、橋本左内、岡見清熙加藤弘之、山本覚馬ほか幕末・明治維新に影響を与えることになる人材が続々と入門、門下は数百人に及ぶ。

  • 佐久間象山、地理的に近かった中津藩江戸藩邸より、多数の子弟を受け入れ。砲術・兵学を教える。中津藩のために西洋式大砲二門を鋳造。また、藩邸に赴き、学問教授。このため、中津藩の調練は他藩に比べて大いに進歩。

  • 勝海舟、蘭学者・佐久間象山の勧めにより、西洋兵学を修める。赤坂田町に蘭学と兵法学の私塾・勝塾設立。後に杉亨二が塾頭に。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

1853(嘉永6)年 安政の改革

黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所長崎海軍伝習所を設置。

  • 1854(嘉永7)年 - 1862(文久2)年 佐久間象山(44-52歳)、門弟・吉田松陰がペリー再航の際に密航を企て、失敗。この事件に連座し、伝馬町牢屋敷に入獄。松代で蟄居。

  • 1856(安政3)年 杉亨二(29歳)、 老中・阿部正弘の侍講に。物産学・政事学・兵学・究理学・航海学などを学ばせるため留学生派遣の要を建白。

1857(安政4)年2月 蕃書調所発足

洋学所蕃書調所東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪中村敬輔(中村敬宇・中村正直)加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。

  • 1860(安政7/万延元)年 杉亨二(33歳)、蕃書調所教授手伝に。

1862(文久2)年1月3日(旧暦・11月14日) 学問所奉行設置

文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した学問所奉行を設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、昌平坂学問所(昌平黌)および蕃書調所の監督を行う。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。蕃書調所昌平坂学問所(昌平黌)と同格の幕府官立学校に。

  • 1862(文久2)年6月15日(旧暦・5月18日)、蕃書調所、「蕃書」の名称が実態に合わなくなったことを理由に、洋書調所に改称。​

  • 1863(文久3)年10月11日(旧暦・8月29日)、洋書調所開成所に改称。中国の『易経』繋辞上伝の中の「開物成務」(あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する)に基づくとされる。

  • 1864(文久4/元治元)年 杉亨二(37歳)、開成所教授に。洋書翻訳に従事している際、バイエルン王国における識字率についての記述に触れたことが、統計学と関わるきっかけに。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し

官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。

  • 1869(明治2)年 杉亨二(42歳)、明治維新後、静岡藩に仕える。『駿河国人別調』を実施するも、藩上層部の反対により、一部地域での調査と集計を行うに止まる。

  • 1872(明治5)年2月2日(旧暦・12月24日) 杉亨二(45歳)、明治新政府より太政官正院政表課大主記(現代の総務省統計局長に該当)を命じられる。近代日本初の総合統計書『日本政表』の編成を行う。

1873(明治6)年7月 明六社結成

アメリカより帰国した森有礼、富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と提言。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉加藤弘之中村正直西周西村茂樹・津田真道・箕作秋坪杉亨二箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる明六社結成。初代社長に。会員には旧幕府官僚、開成所の関係者および慶應義塾門下生の官民調和で構成される。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。

  • 1873(明治6)年7月 森有礼(27歳)、日本初の近代的啓蒙学術団体となる明六社結成。初代社長就任。

  • 1879(明治12)年 杉亨二(52歳)、日本における国勢調査の先駆となる『甲斐国現在人別調』を甲斐国で実施。甲斐国の現在人数は397,416人という結果を得る。

  • 1881(明治14)年 杉亨二(54歳)、統計院大書記官に。

  • 1882(明治15)年 杉亨二(55歳)、『第一統計年鑑』刊行。

  • 1883(明治16)年9月 杉亨二(56歳)、統計院有志と東京九段に共立統計学校創立。教授長に。

  • 1885(明治18)年12月 杉亨二(58歳)、統計院大書記官の官職を辞す。以後、民間にあって統計の普及に努める。

  • 杉亨二、統計専門家・統計学者の養成、統計学研究のため、表記学社や製表社(東京統計協会の源流)設立。

  • 1910(明治43)年 杉亨二(83歳)、国勢調査準備委員会委員に。統計学者・呉文聰や衆議院議員・内藤守三らと共に、長年の念願であった国勢調査の実現のため尽力。

  • 1917(大正6)年12月4日 杉亨二(90歳)、念願であった第1回国勢調査の実施を見ること叶わず、病のため死去。享年90歳。勲二等瑞宝章受勲。後に従四位追贈。「日本近代統計の祖」と称される。

出身校

関連する学校・組織(前史)

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関連する教育者

参考情報

参考文献・書籍

杉亨二

すぎこうじ

1828(文政11)年9月10日(旧暦・8月2日) - 1917(大正6)年12月4日

統計学者、開成所教授、太政官正院政表課大主記、統計院大書記官、共立統計学校創立、「日本近代統計の祖」

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