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ダイガクコトハジメ - 工部大学校

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学校略歴

  • 1863(文久3)年5月12日 - 1864(文久4)年6月、伊藤博文山尾庸三ら「長州五傑」、藩命によりイギリスへ、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジほか留学、工学・造船・造幣など知識・技術を学ぶ、イギリスと日本とのあまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりに

  • 1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日)、伊藤博文山尾庸三と共に工部省設立、日本近代化のための社会基盤整備と殖産興業推進を担う、鉄道技師長エドモンド・モレルの提案を受け、日本人技術者の養成を目的とする教務部併設を主張

  • 1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日)、工部省の10寮1司の一等寮として、技術者養成のための工学寮創設、初代大学頭に山尾庸三

  • 1871(明治4)年11月、工学寮教師団の人選を依頼していたエドモンド・モレルが急逝、ヒュー・マセソンに雇用協力を打診、グラスゴー大学より工学教師ヘンリー・ダイアーを筆頭とする俊英が選ばれる、1873(明治6)年に教師団来日

  • 1873(明治6)年11月、工学寮工学校、基礎課程・専門課程・実地課程(各2年)の3期6年制学校として発足、土木・機械・造家(建築)・電信・化学・冶金・鉱山・造船の6学科とする学則・カリキュラム制定

  • 1876(明治9)年、工学寮工学校内に、日本最初の美術教育機関・工部美術学校設立、純粋な西洋美術教育のみの機関であり、日本画・木彫は教授されず

  • 1877(明治10)年1月、工学寮廃止、工部大学校に改称、理論研究と実地修練を組み合わせた高度な工学教育を行う、官費生には奉職義務が課せられる

  • 1882(明治18)年 - 1883(明治19)年、アーネスト・フェノロサの提言などもあり、日本美術の再評価、国粋主義が台頭、西洋美術教育機関・工部美術学校廃校

  • 1885年(明治18)年、工部省廃止、工部大学校文部省に移管

  • 1886年(明治19)年3月、帝国大学令により、東京大学工芸学部工部大学校が合併、帝国大学工科大学

帝国大学工科大学

  • 1887(明治20)年10月、欧米調査における美術学校の組織管理および学科教授法の報告に基づき、東京美術学校の創立準備、文部省図画取調掛と工部省工部大学校内工部美術部を統合

  • 1888(明治21)年8月 - 1890(明治23)年9月、学習院、火事で校舎消失、工部大学校跡に移転、後に四谷区尾張町に移転

  • 1889(明治22)年2月、東京美術学校開校、文人画を除く伝統的日本美術の保護・振興を目的とする、西洋美術が排される

東京美術学校

  • 1890(明治23)年、東京女学館、工部大学校本館を校舎として利用、「虎ノ門女学校」と呼ばれる、関東大震災にて焼失

創立者

学校年表

  • 1863(文久3)年5月12日 - 1864(文久4)年6月 伊藤博文(23-24歳)、井上馨の薦めで海外渡航を決意。藩命により陪臣から士籍に。密航で山尾庸三・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリス留学。「長州五傑」と呼ばれる。荷物は1862(文久2)年発行の間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけ。途中に寄港した清の上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられる。9月23日、ロンドン到着。

  • 伊藤博文(23-24歳)、ヒュー・マセソンの世話を受け、化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在。英語や礼儀作法の指導を受ける。英語を学ぶと共に博物館・美術館に通い、海軍施設・工場などを見学して見聞を広める。イギリスと日本とのあまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりに。開国論に転じる。

  • 1863(文久3)年5月12日 - 1868(慶応4/明治元)年 山尾庸三(27-32歳)、密航で伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリス留学。「長州五傑」と呼ばれる。ロンドンにて英語と基礎科学を学んだ後、グラスゴーにて造船を中心とした徒弟制訓練を受ける。アンダーソン・カレッジの音楽教師であったコリン・ブラウンの家に下宿、講義を受ける。一方、造船所で聴覚障害者が熟練工として働くのを見て、国家の近代化には障害者教育が必要と確信。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 明治維新後、伊藤博文、博文と改名。長州閥の有力者として、英語に堪能な事を買われて参与・外国事務局判事・大蔵少輔兼民部少輔・初代兵庫県知事(官選)・初代工部卿・宮内卿など明治新政府の様々な要職を歴任。木戸孝允の後ろ盾があり、井上馨や大隈重信と共に改革を進めることを見込まれる。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 二官六省制に

官制の大改正、神祇官・太政官が天皇を補佐、国政全般にあたる。太政官の下、民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務省の六省が置かれる。徴税(民部省)と財政(大蔵省)機構の一体化による中央集権体制の確立を主張する木戸孝允一派の働きかけにより、翌月9月16日(旧暦・8月11日)に民部省と大蔵省が合併。形式上は両省とも存続され、卿以下少丞以上の幹部が両省の役職を兼ねることに。民部大蔵省とも称される。​一方、地方官の支持を受け、大久保利通が主導して広沢真臣・副島種臣・佐々木高行の4参議で再分離を求めた結果、翌年1870(明治3)年8月6日(旧暦・7月10日)に再度分離。

その後、1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日)に殖産興業を推進する工部省が民部省より分離される。翌年1871(明治4)年9月11日(旧暦・7月27日)に民部省が大蔵省に合併される。民部省廃止。

  • 1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大隈重信(32歳)、二官六省制により、大蔵大輔に。中央集権体制確立を主張する木戸孝允一派のナンバー2の立ち位置に。翌月9月16日(旧暦・8月11日)、大蔵・民部両省の合併を実現、民部大輔を兼ねる。巨大な権力を持つ民部大蔵省の実力者として、地租改正などの改革を担うと共に、殖産興業政策を推進。官営の模範製糸場・富岡製糸場設立、鉄道・電信建設などに尽力。これらの急進的な改革は、副島種臣・佐々木高行・広沢真臣など保守派、民力休養を考える大久保利通の嫌うところに。4参議の求めにより、1870(明治3)年8月6日(旧暦・7月10日)に大蔵省・民部省が再度分離。

  • 1869(明治2)年8月29日(旧暦・7月22日) 大久保利通(40歳)、参議に就任、内政の中枢を握る。木戸孝允らと共に版籍奉還・廃藩置県など、明治新政府の中央集権体制を確立。当初は保守的・斬新的態度をとり、木戸孝允・大隈重信ら革新的・開明的態度に政策・政治勢力で一歩譲る立ち位置に。岩倉遣欧使節団にて欧米先進諸国を視察、イギリスにおける工業と貿易の発展、プロイセン(ドイツ)における政治体制と軍事力の拡充などを目の当りにし、強い衝撃を受ける。大蔵卿就任後、富国強兵・殖産興業政策実行の舵を取る。

  • 1869(明治2)年12月7日(旧暦・11月5日) 大隈重信(32歳)伊藤博文と共に日本発の鉄道敷設を計画。右大臣三条実美の東京邸宅にて、岩倉具視・沢宣嘉・大隈重信伊藤博文の4者がパークスと非公式に会談、鉄道計画を相談。事前にパークスと協議した脚本通りに進行。岩倉具視・沢宣嘉の賛同を得る。12月12日(旧暦・11月10日)、鉄道敷設が正式に廟議決定。

  • 1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日) 大隈重信(33歳)、殖産興業を推進する工部省を民部省より分離。

  • 1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日) 伊藤博文(30歳)山尾庸三と共に工部省設立に尽力。鉄道技師長エドモンド・モレルの提案を受け、お雇い外国人技術者に頼るのではなく日本人技術者を養成すべきとし、教務部併設を主張。太政官制度の下、日本近代化のための社会基盤整備と殖産興業推進を目的とする中央官庁として、工部省設置。​初代工部卿として、殖産興業を推進。殖産興業は後に、内務卿・大久保利通の下、内務省へと引き継がれる。

  • 1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日) 伊藤博文(31歳)、工部省に鉄道・造船・鉱山・製鉄・電信灯台・製作・工学・勧工・土木の10寮と測量の1司を配置。山尾庸三工学寮と測量司の長官に。

  • 1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日) 山尾庸三(35歳)、工部省の10寮1司の一等寮として、技術者養成のための工学寮創設。工部権大丞として、初代工学頭に。海外留学制度・国内技能研修制度(修技校)・技術大学制度(工学校)を通し、一元的に官職技術者育成を図る。最終的に工学寮工学校のみの直轄に。

  • 1871(明治4)年11月 山尾庸三(35歳)工学寮教師団の人選を依頼していたエドモンド・モレルが急逝。代わって教師団を人選、旧知のヒュー・マセソンに雇用協力を打診、快諾を得る。グラスゴー大学より工学教師ヘンリー・ダイアーを筆頭とする俊英が選ばれる。1873(明治6)年、教師団が来日。ヘンリー・ダイアーは当初の小学校と呼ばれる複数学校群設立案を退け、工学校(大学校)設置を立案。

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6) 大久保利通(42-44歳)、大蔵卿に就任。岩倉遣欧使節団の副使として外遊。イギリスの工業・工場群に、日本近代化のための殖産興業の姿を描く。政治体制のあるべき姿については、先進国イギリスではなく、発展途上のドイツ(プロイセン王国)とロシア帝国こそモデルになると考える。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6) 伊藤博文(31-33歳)岩倉遣欧使節団の副使にとして渡米。サンフランシスコにて、「日の丸演説」・「国旗の中央なる吾等が緋の丸こそ最早閉ざされし帝国の封蝋の如く見ゆらざれ、将にその原意たる、旭日の貴き徽章、世界の文明諸国の只中に進み昇らん」。1873(明治6)年3月、ベルリンに渡り、プロイセン皇帝ヴィルヘルム1世に謁見。宰相・ビスマルクと会見、ビスマルクから強い影響を受ける。

  • 1872(明治5)年 伊藤博文(32歳)、大蔵兼民部少輔として大隈重信と共に殖産興業政策を推進。鉄道建設を強力に推し進める。京浜間の鉄道は、品川 - 横浜間で仮営業を始め、新橋までの全線が開通。​

  • 1872(明治5)年1月8日 大鳥圭介(40歳)、特赦により出獄。新政府に出仕。左院少議官、開拓使5等出仕を経て、大蔵小丞兼任。欧米各国を開拓機械の視察と公債発行の交渉に歴訪。

  • 1873(明治6)年5月26日 伊藤博文(33歳)岩倉遣欧使節団がアメリカで不平等条約改正交渉を開始。全権委任状を取るため、大久保利通と共に一旦帰国。しかし、取得に5か月もかかったことで木戸孝允との関係も悪化。改正交渉中止。木戸孝允との不仲は、のちに和解。

​1873(明治6)年10月24日-10月25日 明治六年政変

征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・桐野利秋・大隈重信大木喬任ら。反対したのが大久保利通・岩倉具視

・木戸孝允・伊藤博文・黒田清隆ら。岩倉遣欧使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことも大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。

閣議において、大隈重信大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。

西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。

  • 1873(明治6)年 伊藤博文(33歳)、明治六年政変、内治優先路線を掲げた大久保利通・岩倉具視・木戸孝允らを支持。大久保利通の信任を得る。木戸孝允と疎遠になる代わりに、政権の重鎮となった大久保利通・岩倉具視と連携する道を選ぶ。

  • 1873(明治6)年11月10日 大久保利通(44歳)、ビスマルクの下で官僚機構を活用した近代化を推し進めるプロイセン王国の帝国宰相府をモデルに。強い行政権限を持つ官僚機構として、内務省設立。大蔵省より地方行財政や殖産興業に関する組織・権限を内務省に移管。初代内務卿として実権を握る。学制・地租改正・徴兵令などを実施。「富国強兵」をスローガンに、「殖産興業」政策を推進。当時の大久保利通への権力集中は、有司専制として批判されることに。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎が築かれることに。

  • 1873(明治6)年11月、工学寮工学校、基礎課程・専門課程・実地課程(各2年)の3期6年制学校として発足。ヘンリー・ダイアーが初代都検となり、実質的に校長を務めた。土木・機械・造家(建築)・電信・化学・冶金・鉱山・造船の6学科とする学則・カリキュラムが制定される。

  • 1873(明治6)年 片山東熊(20歳)工学寮工学校に第1回生として入学。造家(建築)学専攻。1877(明治10)年着任の外国人教授ジョサイア・コンドルに師事。

  • 1875(明治8)年 大鳥圭介(43歳)工部省四等出仕。技術官僚として、殖産興業政策に貢献。工作局長として、官営工場を総括。セメントやガラス、造船、紡績などのモデル事業を推進するなどインフラ開発に関わる。 工学寮権頭兼製作寮頭に。

  • 1875(明治8)年 辰野金吾(22歳)工学寮工学校2年終了後、造船から造家(建築)に転じる。1877(明治10)年着任の外国人教授ジョサイア・コンドルに師事。

  • 1876(明治9)年、工学寮工学校内に、日本最初の美術教育機関・工部美術学校設立。ルネサンス美術の中心地であるイタリアより、お雇い外国人が起用される。画学科・彫刻科の二科設置。純粋な西洋美術教育のみの機関であり、日本画や木彫は行われなかった。

  • 大鳥圭介、内国勧業博覧会の審査員に。国内諸産業の普及と民力向上に尽力。

  • 1876(明治9)年 松岡壽(15歳)、設立すぐの工部美術学校に第一期生入学。イタリア人教師アントニオ・フォンタネージに師事。

  • 1877(明治10)年1月、工学寮廃止。ボアンヴィル設計による、当時世界で最も優れた工業教育施設とされる本館が完成。工学寮工学校は、工部大学校に改称。初代校長に、工作局長・大鳥圭介。イギリスから招聘された技師たちの指導の下、理論研究と実地修練を組み合わせた高度な工学教育を行う。官費生には奉職義務があり、卒業後7年間は官庁で働く取り決めに。

  • 1877(明治10)年6月 大鳥圭介(45歳)、荒井郁之助・金子精一・志田林三郎・高嶺譲吉ら工部大学校の生徒と共に、日本初の工業雑誌『中外工業新報』発刊。先進的技術の普及に尽力。

  • 1879(明治12)年11月 片山東熊(26歳)工部大学校造家学科を第1等の成績で卒業。工部省営繕課入省。

  • 1880(明治13)年 - 1883(明治16)年 辰野金吾(27-30歳)、英国留学。ジョサイア・コンドルの師であるバージェスの建築事務所で学ぶ。ロンドン大学入学。

  • 1880年代前半、工部卿・佐々木高行の下、鉄道・電信などを除き、官営工場の民間払下げが進められる(官営事業払下げ)。

1881(明治14)年10月 明治十四年の政変

自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。

政府から追い出され下野した福澤諭吉慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、明治十四年の政変、自由民権運動に同調。国会開設意見書を提出、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く。一方、開拓使官有物払下げを巡り、かつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立。自身の財政上の失政もあり、参議を免官に。下野。

  • 1881(明治14)年12月3日 大鳥圭介(49歳)、工部技監に昇進。勅任官となり、技術者として最高位に。

  • 1882(明治18)年 - 1883(明治19)年、アーネスト・フェノロサの提言などもあり、日本美術の再評価が行われる。国粋主義が台頭。西洋美術教育・工部美術学校廃校。

  • 1884(明治17)年 辰野金吾(31歳)、外国人教授ジョサイア・コンドル退官後、工部大学校教授に。

1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足

太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼

  • 1885(明治18)年、太政官制度廃止により内閣制度発足。工部省が廃止され、逓信省と農商務省に分割・統合。工部大学校は文部省に移管される。

1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学

高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。初代総長に渡辺洪基を勅任。

​→ 帝国大学工科大学

  • 1887(明治20)年10月 岡倉天心(25歳)、欧米調査における美術学校の組織管理および学科教授法の報告に基づき、東京美術学校創立を準備。文部省図画取調掛と工部省工部大学校内工部美術部を統合。

​→ 東京美術学校

  • 1888(明治21)年8月 - 1890(明治23)年9月、学習院、火事で校舎消失。麹町区三年町の工部大学校跡に移転。後に、四谷区尾張町に移転。

  • 1889(明治22)年2月、東京美術学校開校。日本最初の美術教員・美術家養成のための機関であり、当初は文人画を除く伝統的日本美術の保護・振興を目的とする。教官に黒川真頼・橋本雅邦・小島憲之・川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲ほか。修業年限2年の普通科と3年の専修科から構成。後に西洋画・図案・彫塑など西洋美術の教育も加わる。

  • 1889(明治22)年、国立の美術教育機関・東京美術学校が開校するも、西洋美術が排される。欧化政策の反動から国粋主義が台頭、1883(明治19)年に廃校した工部美術学校出身の西洋美術作家達を中心に、当時の洋画家ほぼ全員約80名が大同団結、明治美術会発足。当初は、反東京美術学校の一面を備えていた。後に1893(明治26)年にフランスより帰国した黒田清輝・久米桂一郎入会。

  • 1889(明治22)年 松岡壽(28歳)、西洋美術作家達が大同団結、浅井忠らと明治美術会を組織する。会の運営にあたる。印象派風の新画風で新派・外光派(紫派)と呼ばれた黒田清輝に対し、工部美術学校系の西洋画家は旧派・脂派と呼ばれる。藤島武二ら多くの後進を指導。

  • 1890(明治23)年、東京女学館、宮内省より虎ノ門の旧・工部大学校本館を借り受け、移転。世に「虎ノ門女学校」と呼ばれるように。

 

​工部大学校年表

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