ダイガクコトハジメ - 小野梓
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参考文献・書籍
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小野梓
おのあずさ
1852(嘉永5)年3月10日(旧暦・2月20日) - 1886(明治19)年1月11日
共存同衆結成、司法省・太政官・会計検査院、鷗渡会結成、大隈重信と共に立憲改進党結成、東京専門学校(現・早稲田大学)創立
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1852(嘉永5)年3月10日(旧暦・2月20日) 小野梓(1歳)、土佐国宿毛(現・高知県宿毛市)に軽格武士・小野節吉と母・助野の次男として生まれる。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4/明治元)年8月17日(旧暦・6月29日) 新政府が昌平坂学問所を接収
明治新政府が昌平坂学問所(昌平黌)を接収、官立の昌平学校として再出発。
明治新政府の布告により、開成所と医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。
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1869(明治2)年 小野梓(18歳)、上京、昌平学校に学ぶ。
1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想
明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校を大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校を大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
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1871(明治4)年 - 1874(明治7)年 小野梓(20-23歳)、米国および英国に私費留学。ベンサムの功利主義の影響を強く受ける。
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1874(明治7)年 小野梓(23歳)、万里小路通房・岩崎小二郎・尾崎三良・大内青巒・広瀬進一・赤松連城と共に、啓蒙団体・共存同衆結成。『共存雑誌』発刊、西洋思想の普及に努める。
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1876(明治9)年 小野梓(25歳)、司法省官吏に。以後、司法省少丞・太政官少書記官など歴任。
1877(明治10)年4月12日 東京大学創立
東京開成学校本科と東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部が錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。
法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。
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1879(明治12)年 矢野龍渓(29歳)、福澤諭吉の推薦にて、牛場卓蔵・犬養毅・尾崎行雄と共に官吏として政府に送り込まれる。統計院太政官から内務権大書記官を経て、大蔵省入省。大蔵書記官、次いで会計検査局員に。従六位に叙せられる。
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1880(明治13)年2月28日 大隈重信(43歳)、参議の各省卿兼任が解かれる。大蔵卿の兼務を解かれ、会計担当参議に。大蔵卿後任に佐野常民を任命、財政に対する影響力を保とうとするも、佐野常民が外債募集案に反対、財務掌握が終焉を迎える。この頃より、伊藤博文・井上馨から冷眼視されるように。
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1880(明治13)年3月 大隈重信(43歳)、会計検査院創設を建議、設立。
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1880(明治13)年 小野梓(29歳)、新設の会計検査院検査官就任。大隈重信との関係を深める。
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1880(明治13)年 福澤諭吉(46歳)、日本最初の実業家社交クラブ結成を提唱、慶應義塾出身者を中心に、交詢社創立。名称は「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」に由来。福澤諭吉を会長に、大隈重信・鍋島直大・後藤象二郎をはじめ華族・官僚・学者・地主・商工業者など参加。
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矢野龍渓、私擬憲法が議論され始めると、交詢社創設に加わる。常議員に。
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1880(明治13)年12月 - 1881(明治14)年1月 福澤諭吉(46-47歳)、参議・大隈重信邸で大隈重信・伊藤博文・井上馨と会見。政府新聞『公布日誌』の発行を依頼される。その場での諾否を保留して数日熟考。「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと翌1881(明治14)年1月に井上馨を訪問。しかし、井上馨が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで、その英断に歓喜。新聞発行を引き受ける。
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1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、当時急進的過ぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤博文への事前相談無しに、独自に提出。伊藤博文は大隈重信を警戒するように。また、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていたが、大隈重信も反対論者であった。慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多く、反対運動について政府関係者に大隈重信・福澤諭吉・慶應義塾の陰謀説が浮上。明治十四年の政変の引き金に。
1881(明治14)年10月 明治十四年の政変
自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。
政府から追い出され下野した福澤諭吉の慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓・矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。
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1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、明治十四年の政変、自由民権運動に同調。国会開設意見書を提出、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く。一方、開拓使官有物払下げを巡り、かつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立。自身の財政上の失政もあり、参議を免官に。下野。
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1881(明治14)年 小野梓(30歳)、明治十四年の政変、大隈重信の下野と共に、官を辞す。
1881(明治14)年10月12日 国会開設の勅諭
自由民権運動の高まりを受け、また明治十四年の政変による政府批判の鎮静化を目的に。明治天皇が「10年後の1890(明治23)年に議員を召して国会を開設すること」・「その組織や権限は自ら定めて公布する(欽定憲法)こと」を勅諭。政府は政局の主導権を取り戻す一方、自由民権運動は国会開設に向けた政党結成に向かうことに。
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1882(明治15)年 高田早苗(23歳)、東京大学文学部哲学政治学及理財学科卒業。大隈重信・小野梓らが結成した立憲改進党に参加。
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1882(明治15)年 天野為之(22歳)、東京大学文学部政治理財科卒業。立憲改進党に参加。
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1882(明治15)年3月 矢野龍渓(32歳)、所属していた東洋議政会を率い、立憲改進党に参加。
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1882(明治15)年4月 小野梓(31歳)、大隈重信より鷗渡会会員に学校設立の話が持ちかけられる。来る立憲政治の指導的人材養成を主たる目的として学校設立を構想。鷗渡会が創立を支援。
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1882(明治15)年10月21日 大隈重信(45歳)、英国流の近代国家建設という政治展望の一事業として。小野梓・高田早苗らと共に、東京専門学校(現・早稲田大学)創立。「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を掲げる。北門義塾校舎を受け継ぐ。政治経済学科・法律学科・理学科・英学科設置。理学科は学生が集まらず、早々に廃止。
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1882(明治15)年10月21日 小野梓(31歳)、「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を謳い、東京専門学校(現・早稲田大学)創立に参画。「学問の独立」宣言、一国の独立は国民の独立に基き、国民の独立は其精神の独立に根ざす。而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものであるから、其国を独立せしめんと欲せば、必ず先づその精神を独立せしめざるを得ず。しかしてその精神を独立せしめんと欲せば、必ず先ず其学問を独立せしめなければならぬ。これ自然の理であつて、勢のおもむくところである。
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1882(明治15)年10月21日 矢野龍渓(32歳)、東京専門学校(現・早稲田大学)設立に携わる。創立委員に。
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東京専門学校、「学問の独立」を掲げるも、明治政府より大隈重信率いる自由民権運動政党・立憲改進党系の学校と見做される。判事・検事および東京大学教授の出講禁止措置など、様々な妨害・圧迫が加えられる。講師の確保にも窮する状態が続き、一時は同じく英法学系で新設の英吉利法律学校(現・中央大学)との合併話が持ち上がるなど、学校存続の危機に。
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1882(明治15)年 大隈英麿(27歳)、東京専門学校(現・早稲田大学)初代校長に。
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1883(明治16)年 小野梓(32歳)、東洋館(後の冨山房)設立。洋書取次ぎや政治・経済書の出版を行う。
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1885(明治18)年 小野梓(34歳)、私擬憲法『国憲私案』起草。イギリス流の立憲君主制実現を目指す。
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1885(明治18)年 小野梓(34歳)、 『国憲汎論』著述。
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1886(明治19)年1月11日 小野梓(35歳)、死去。享年35歳。
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