ダイガクコトハジメ - 吉武栄之進
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吉武栄之進
よしたけえいのしん
1864(元治元)年7月22日(旧暦・6月19日) - 1927(昭和2)年1月3日
東京師範学校教諭、第二高等学校教授、東京高等工業学校教授・第3代校長、東京高等工藝学校(現・千葉大学工学部)創立委員・第2代校長、文部省視学官
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1864(文久4/元治元)年7月22日(旧暦・6月19日) 吉武栄之進(1歳)、信濃国松本城下(現在の長野県松本市)に松本藩士の子として生まれる。
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吉武栄之進、開智学校入学。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
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吉武栄之進、大学予備門入学。
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1884(明治17)年 吉武栄之進(21歳)、東京帝国大学卒業。東京府立第一中学教諭に。
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吉武栄之進、東京師範学校教諭に。
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吉武栄之進、第二高等学校教授に。
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吉武栄之進、東京高等工業学校教授に。
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1914(大正3)年、東京高等工業学校工業図案科、東京美術学校図案科に併合、廃止に。在学生が東京美術学校に転入。しかし、東京美術学校では機能美実現に不可欠な工学的要素がうまく教えられず。また日本美術に重きが置かれ、合理的な西洋美術が軽んじられる当時の風潮も重なり、工業図案科が目指す美麗なる製品のための産業工芸の必要性がすぐには理解されず。
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松岡壽、東京高等工業学校工業図案科科長として、安田禄造らと共に廃止反対。工芸図案に関する高等教育の必要性を訴え続ける。東京美術学校に移った関係者の不満も次第に高まり、分離独立の機運が高まる。
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1919(大正8)年8月20日 松岡壽(58歳)、文部省の高等工業学校拡充の政策にも合致、工業図案科を東京美術学校から独立。東京高等工業学校工業図案科の流れを汲み、工業学校と美術学校との境界領域・産業デザインを教授する専門学校として東京高等工藝学校(現・千葉大学工学部)創立が認められる。東京高等工業学校校長・吉武栄之進、安田禄造と共に創立委員に。
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1920(大正9)年 吉武栄之進(57歳)、東京高等工業学校第3代校長に。
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1923(大正12)年11月 吉武栄之進(60歳)、東京高等工藝学校第2代校長を兼任。
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1927(昭和2)年1月3日 吉武栄之進(64歳)、死去。享年64歳。
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