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ダイガクコトハジメ - 中川小十郎

 

中川小十郎

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年表

中川小十郎

なかがわこじゅうろう

1866(慶応2)年2月18日(旧暦・1月4日) - 1944(昭和19)年10月7日

文部省京都帝国大学初代事務局長・書記官日本女子大学校(現・日本女子大学)創立事務幹事嘱託、加島銀行理事、朝日生命副社長、大同生命設立、京都法政学校(現・立命館大学)創立・私立立命館大学初代館長・立命館大学初代総長、樺太庁事務官、台湾銀行頭取、貴族院議員、東京山手急行電鉄(現・小田急電鉄)取締役、戊辰戦争より中川家一族が西園寺公望に仕える、西園寺公望​の秘書官として終生仕える

「中川小十郎」に関する書籍 [外部]

  • 1866(慶応2)年2月18日(旧暦・1月4日) 中川小十郎(1歳)、丹波国南桑田郡馬路村(現・京都府亀岡市馬路町)に中川禄左衛門と母・さきの子として生まれる。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月3日(旧暦・12月9日) 西園寺公望(20歳)、三職の一つ、参与に。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 西園寺公望(20-21歳)、戊辰戦争にて官軍・山陰道鎮撫総督に。東山道第二軍総督北陸道鎮撫総督・会津征討越後口大参謀と、各地転戦。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月4日、中川家、新政府軍を率いた山陰道鎮撫総督・西園寺公望に地元有力郷士として従軍。中川小十郎の父・中川禄左衛門、父の実弟・中川武平太、叔父の中川謙二郎・中川百助らが仕える。西園寺公望との強い信頼関係が築かれる。

  • 1868(慶応4/明治元)年10月31日(旧暦・9月16日)、京都に大学校を新設する太政官布告。これにより、漢学所が11月2日(旧暦・9月18日)開講。やや遅れ、1月26日(旧暦・12月14日)に皇学所開講。

1869(明治2)年 版籍奉還

諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。

  • 1869(明治2)年2月 西園寺公望(21歳)、東京に戻る。木戸孝允の薦めにより、開成学校入学。フランス語勉強始める。法制についても学ぶ。

1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想

明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立

明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校医学校を分局とする大学校東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。

  • 1869(明治2)年10月6日(旧暦・9月2日)、明治新政府より皇学所漢学所の廃止命令が出される。

  • 1869(明治2)年 西園寺公望(21歳)、京都御所内私邸に、私塾立命館(立命館大学の源流)開設。「大いに勤王家を養成する」とし、著名な漢学者を迎える。諸藩より100人ほどの塾生が集い、盛況。校舎増築。

  • 1870(明治3)年1月11日(旧暦・12月10日)、皇学所漢学所の廃止命令に強く反発。京都留守官が東京の大学校を補完する学校として、独断で旧・皇学所と旧・漢学所を統合した大学校代設置。しかし、東京奠都で多くの公家が京都を去ったことも影響、生徒を十分に集めることができず。皇漢両派の対立も止まず。

  • 1870(明治3)年5月23日(旧暦・4月23日) 西園寺公望(22歳)、塾生が集い内外時事問題を議論する場となった私塾立命館について、不穏を感じた京都府庁が差止命令。閉塾。背景に、京都留守官が威信をかけ設立した京都大学校代の不振・廃止があり、近隣で活況を呈した私塾立命館が逆鱗に触れたのではないかと推察される。

  • 1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。

  • 1870(明治3)年8月21日(旧暦・7月25日)、大学校代、明治新政府より不振を理由に廃校、京都府管轄とする命令が下る。府校(現・京都府中学校)に。

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

  • 1871(明治4)年1月 中川小十郎(6歳)、父の実弟・中川武平太の養子に。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

  • 1873(明治6)年 中川小十郎(8歳)、中川武平太が佐賀藩より招いた漢学者・田上綽俊に学ぶ。

  • 1879(明治12)年9月 中川小十郎(14歳)、叔父・中川謙二郎に誘われ上京、寄寓。岡田良平・一木喜徳郎と同宿。東京府第一中學(現・日比谷高等学校)入学。

  • 1881(明治14)年11月 中川小十郎(16歳)、予備校・成立学舎入学。

  • 1884(明治17)年9月 中川小十郎(19歳)、東京大学予備門予科入学。成立学舎出身者を中心に、夏目漱石・中村是公・太田達人・佐藤友熊・橋本左五らと十人会組織。

1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学

高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。帝国大学初代総長に渡辺洪基を勅任。

  • 1886(明治19)年、学校令により、「高等中学校」の制度が成立。東京大学予備門は、第一高等中学校に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置することが定められる。第三高等中学校(京都)・山口高等中学校・第二高等中学校(仙台)・第四高等中学校(金沢)・第五高等中学校(熊本)・鹿児島高等中学造士館が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。第一高等中学校だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が帝国大学へ進学する制度に。

  • 1887(明治20)年2月 中川小十郎(22歳)、正木直彦と共に、大日本教育会募集の懸賞論文に『男女ノ文体ヲ一ニスル方法』応募。一等入選。

  • 1887(明治20)年7月 中川小十郎(22歳)、岡田良平・一木喜徳郎・正木直彦と共に、婦人啓蒙雑誌『以良都女』発行。

 

  • 1890(明治23)年 中川小十郎(25歳)、リチャード・ロジャース・ボーカー著『実用経済学』翻訳。天野為之校閲。冨山房より刊行。

1894(明治27)年6月25日公布 第一次高等学校令

1886(明治19)年の中学校令に基づいて設立された高等中学校について、「高等学校」に改組すること主な目的とする勅令。文部大臣・井上毅が主導。改組により、第一高等学校(東京)・第二高等学校(仙台)・第三高等学校(京都)・第四高等学校(金沢)・第五高等学校(熊本)が誕生(総称してナンバースクールと呼ばれる)。

専門学科(法学部・工学部・医学部など)を教授することを原則とする。しかし、高等学校による専門教育は期待された成果を得ることなく、発展せずに終わる。

但し書きで帝国大学に入学する者のための予科を設けることができるとしたが、制度としては従属的な扱いであった大学予科が大いに発展。

  • 文部大臣・井上毅の高等中学校改革は、帝国大学を大学院中心の研究機関に、分科大学を個別に設置。高等学校を専門教育機関として機能させ、これらを有機的に結びつけるという総合的な高等教育改革構想の第一段階であった。しかし、既に強固な基盤を持っていた帝国大学を改革することはできず。日清戦争後は帝国大学そのものが増設、高等学校はいよいよ大学予科としての機能を強める。構想は実現せず。

  • 1894(明治27)年5月1日、高等学校令により、第三高等学校に改組。予科を置かず、将来の大学昇格を視野に法学部・工学部・医学部設置。初代校長に、折田彦市

  • 1894(明治27)年 折田彦市(46歳)第三高等学校初代校長に。「無為にして化す」の教育方針が三高の「自由」の精神を体現。生徒の人格を最大限認め、可能な限り干渉を排する姿勢を貫く。

  • 1894(明治27)年 西園寺公望(46歳)、病気で辞任の文部大臣・井上毅の後任として、第2次伊藤博文内閣に初入閣。文部大臣に。女子教育発展などに努める。

  • 1894(明治27)年 西園寺公望(46歳)、戊辰戦争以来の繋がり、中川家子息・中川小十郎との出会いを喜ぶ。厚遇、文部大臣秘書官に抜擢。

  • 1894(明治27)年 中川小十郎(29歳)、文部大臣・西園寺公望の秘書官として仕える。以後、首相秘書官・元老私設秘書として終生そばに仕え続ける。

  • 1896(明治29)年 成瀬仁蔵(39歳)、『女子教育』出版。「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」の女子教育方針を示し、女性が人として自立し活動することを期し、世論を喚起。『日本女子大学校創設之趣旨』発表。

  • 1896(明治29)年 広岡浅子(48歳)、土倉庄三郎の紹介により、梅花女学校校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、著書『女子教育』を手渡される。幼い頃に学問を禁じられた体験より大いに共感。金銭の寄付のみならず、行動を共にして政財界の有力者に協力を呼びかけるなど、強力な援助者に。

  • 1896(明治29)年8月 西園寺公望(48歳)、第2次松方正義内閣にて数日間、文部大臣・外務大臣を務めた後に辞任。法典調査会副総裁も辞し、フランスへ。遊学中に虫垂炎、瀕死の重体に。帰国。

  • 1897(明治30)年1月11日 中川小十郎(32歳)、文部省参事官に。

 

  • 1898(明治31)年1月12日 - 1898(明治31)年6月30日 伊藤博文(58歳)、第3次伊藤博文内閣。6月、衆議院を解散。閣議で政党結成の意思表明、新党結成を唱えるも山縣有朋の反対に遭い首相辞任。

  • 1898(明治31)年1月-4月 西園寺公望(50歳)、第3次伊藤博文内閣発足、再び文部大臣に。第二次教育勅語作成にあたる。虫垂炎後遺症発病、辞任。

  • 1899(明治32)年6月 中川小十郎(34歳)、広岡浅子に事業手腕を信頼され、新規事業拡大を任される。朝日生命保険(大同生命保険の前身の一つ)副社長に。

  • 1899(明治32)年 中川小十郎(34歳)、教育への情熱を捨てきれず。文部官僚時代、創設に関わった京都帝国大学が高等学校卒業生しか受けれ入れることができないことに限界を感じ、私学創立を志す。教学面での協力を京都帝国大学教授陣より得、また設立賛助員として広岡浅子西園寺公望実弟・住友友純からの大口寄付ほか京都政財界大物の協力を得る。朝日生命保険事務所の一角に、京都法政学校(現・立命館大学)設立事務所創立。

  • 中川小十郎、加島屋時代に生計のため働く青年たちが高等教育を受ける機会を奪われている現状に官立学校の不備実感。西園寺公望が提唱する「能力と意欲のある人に国として教育機会を与えるべき」実現のため、私学創立決意。

  • 1900(明治33)年6月5日 中川小十郎(35歳)、鴨川河畔の清輝楼にて京都法政学校開校。初代校長に、富井政章。司法省法学校卒業の京都始審裁判所勤務・山崎恵純が校主を務めるフランス法系私立法律学校・京都法学校を吸収。

  • 1901(明治34)年12月、住友友純の寄付などにより、広小路学舎設立。

  • 1902(明治35)年 中川小十郎(37歳)、朝日・護国・北海3生命保険を合併、大同生命保険設立。筆頭取締役に。

1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令

中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。

予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。

  • 1903(明治36)年9月、専門学校令に基づき、私立京都法政専門学校に改組。

  • 1903(明治36)年10月 中川小十郎(38歳)、京都法政学校内に夜間二年制語学学校・東方語学校設立。校長に。

  • 1904(明治37)年9月私立京都法政大学に改組。大学部設置。法律学科・経済学科・予科を置く。初代学長に、富井政章。

  • 1905(明治38)年4月 中川小十郎(40歳)、西園寺公望に私塾立命館の継承を申し出、快諾される。私立京都法政大学、立命館に改称。立命館学監に。

  • 1905(明治38)年 西園寺公望(57歳)、中川小十郎より1869(明治2)年に創立した私塾立命館の継承打診、大変喜ぶ。「立命館」扁額寄贈。

  • 1905(明治38)年9月 中川小十郎(40歳)、私立清和普通学校(後に立命館中学)設立。

  • 1906(明治39)年1月7日 - 1908(明治41)年7月4日 西園寺公望(58歳)、第1次桂太郎内閣より禅譲される形で、内閣総理大臣に。第1次西園寺内閣組閣。日露戦争後の南満州撤兵問題・カリフォルニアの排日運動対処・日露協約締結など取り組む。以降、桂太郎と政権を交互に組閣。桂園時代と呼ばれる。

  • 1906(明治39)年 中川小十郎(41歳)、第1次西園寺内閣組閣、内閣書記官・ 内閣総理大臣秘書官に。

  • 1908(明治41)年 - 中川小十郎(43-歳)、第1次西園寺内閣総辞職。樺太庁事務官として樺太出向。

  • 1911(明治44)年8月30日 - 1912(明治45/大正元)年12月5日 西園寺公望(63歳)、第2次西園寺内閣組閣。明治天皇崩御と大正天皇践祚・辛亥革命後の中国対応にあたる。

  • 1912(明治45/大正元)年9月11日 中川小十郎(47歳)、文部省退職。台湾銀行副頭取に。翌年、頭取に。台湾銀行時代、西園寺公望の後援を得て政治の世界へ。

  • 1913(大正2)年12月、立命館、私立立命館大学に改称。初代館長に、中川小十郎。

  • 1913(大正2)年12月 中川小十郎(48歳)、私立立命館大学初代館長に。

  • 1916(大正5)年7月 中川小十郎(51歳)、友人の京都市長・井上密が病気療養、市長辞任。京都市長後任に選出されるも、辞退。

  • 1917(大正6)年9月 中川小十郎(52歳)、台湾銀行副頭取に再任。

1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 大学令

原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における帝国大学と別種の「大学」を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。

その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認める。

  • 1919(大正8)年7月、私立立命館大学、立命館大学に改称。

  • 1920(大正9)年8月 中川小十郎(55歳)、台湾銀行頭取に。

  • 1922(大正11)年6月、立命館大学、大学令に基づき、大学昇格。北大路に新校舎移転。初代学長に、富井政章。

  • 1925(大正14)年 中川小十郎(60歳)、任期満了により台湾銀行頭取退任。貴族院議員勅選。

  • 1928(昭和3)年4月 中川小十郎(63歳)、立命館中学校長に。

  • 1928(昭和3)年6月 中川小十郎(63歳)、京都商工会議所顧問に。

  • 1928(昭和3)年9月 中川小十郎(63歳)、東京山手急行電鉄(現・小田急電鉄)取締役に。

  • 1929(昭和4)年5月 中川小十郎(64歳)、日本産業協会評議員に。

  • 立命館大学、総長制施行。初代総長に、中川小十郎。

  • 1931(昭和6)年7月 中川小十郎(66歳)、立命館大学初代総長に。

  • 1936(昭和11)年4月 中川小十郎(71歳)、南洋航路社長に。

  • 1940(昭和15)年11月24日 西園寺公望(92歳)、死去。享年92歳。従一位追昇。中川小十郎の発案、立命館大学学祖に。

  • 1944(昭和19)年10月7日 中川小十郎(79歳)、死去。享年79歳。

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