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ダイガクコトハジメ - 矢野二郎 - 大学の始まり物語

矢野二郎
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矢野二郎

 

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約3,000文字(読了目安:5-10分程度)​

「一橋大学の種火を守り抜いた幕臣」

矢野二郎の大学”始まり”物語

序章 黒船の衝撃と幕臣の目覚め

 1845(弘化2)年、江戸駒込に幕臣・富永惣五郎の次男として矢野二郎が生まれる。のちに幕臣・矢野氏の養嗣子となる彼が育った環境は、旧態依然とした武家社会の中にあって特異であった。父は微禄の御家人でありながら、江川英龍や伊東玄朴らと交わり、公然と鎖国打破と西洋兵術の導入を唱える開明的な人物。二郎は幼少期より、この父から西洋への眼差しと合理的な思考を色濃く受け継いで育つ。


 1853(嘉永6)年7月、9歳の二郎に歴史の激震が走る。ペリー率いるアメリカ艦隊の浦賀来航である。大統領国書を携えた黒船の威容は国家存亡の危機を突きつけ、同時に彼に語学の重要性を直感させる。1860(万延元)年、16歳で幕府訳官の森山多吉郎らに英語を学び始め、ここで終生の友となる益田孝や尺振八と出会う。翌年、水戸藩士によるイギリス公使館襲撃事件(東禅寺事件)が勃発。17歳の二郎は、その語学力を買われ幕府の外国方訳官に抜擢され、関係各国との事後交渉という外交の最前線に引き出される。


 1863(文久3)年、19歳の二郎は横浜運上所(税関)に配属され、同年、第2回遣欧使節の訳官としてフランスへ渡る。そこで目撃したのは、圧倒的な軍事力のみならず、国家を根底から支える巨大な経済システムと商業の力であった。翌1864(元治元)年に帰国。1865(慶応元)年、21歳となった彼は、幕府のフランス式兵制導入に伴い騎兵伝習隊に入隊する。迫り来る内乱の足音。武士としての本分と、西洋の圧倒的な近代化の狭間で、若き幕臣は己の進むべき道を模索し続ける。
 

第一章 幕府の瓦解と実学への転身

 1867(慶応3)年、大政奉還によって200年続いた江戸幕府が崩壊。翌1868(明治元)年、明治新政府が樹立され戊辰戦争が勃発する。鳥羽・伏見の戦いでの敗北後、小栗忠順や榎本武揚ら旧幕臣の多くが主戦論を唱え、大鳥圭介らは伝習隊を率いて脱走し旧幕府軍として戦線へ向かう。しかし、24歳の二郎は冷徹な決断を下す。彼らに与することなく官を辞し、士籍を脱するのである。


 彼が向かったのは戦場ではなく、開港場・横浜であった。二郎は自らの語学力を武器に翻訳所を開き、外国貿易取引の仲介業に身を投じる。刀を捨て、算盤と語学で世界と対峙する実業家への転身。西洋列強と対等に渡り合うには、内戦で血を流すことではなく、経済の力、すなわち実学によって国を豊かにすることが不可欠であるという彼なりの確信と実践である。商才を発揮した彼は、若くしてビジネスで大きな成功を収める。


 1870(明治3)年、26歳の彼に再び転機が訪れる。横浜での彼の手腕を見込んだ森有礼の推挽により、外務省に入省。渡米して二等書記官、のちには駐米代理公使として外交実務を担うこととなる。新政府の官僚として国家の基盤構築に関わる中、彼は同じくアメリカに駐在していた森有礼が抱く「国家の近代化には民間人材の育成が不可欠である」という理念に深く共鳴していく。
 

第二章 泥臭い建学と存亡の危機

 1875(明治8)年、商業教育の必要性を唱える森有礼が、渋沢栄一福澤諭吉らの協力を得て東京銀座に私塾「商法講習所」を創立する。のちの一橋大学の源流である。しかし同年、森は清国公使として日本を離れることとなる。1876(明治9)年、32歳の二郎は、森の後を託された益田孝や勝海舟らの熱心な説得を受け、商法講習所の所長に就任する。外交官という名誉ある地位を捨て、名もない私塾の経営を引き受ける決断。終わりのない建学への泥臭い闘いの幕開けである。


 当時の日本は、「商売は卑しいもの」という身分意識が根強く残る官尊民卑の時代。優秀な若者はみな立身出世を求めて官僚を目指す。商法講習所の歩みは、常に存亡の危機と隣り合わせであった。管轄が東京会議所から東京府へ移管される中、折からの財政難により何度も廃校論が持ち上がる。


 1881(明治14)年、37歳の二郎を最大の試練が襲う。東京府会が経費の支出を完全に拒否、商法講習所の廃止を決議したのである。教育の灯を消してはならない。二郎は直ちに渋沢栄一文部省辻新次ら官界・財界の重鎮と連携して奔走する。東京府知事や農商務卿に働きかけ、農商務省の補助を引き出し、辛くも学校の存続を勝ち取る。


 1883(明治16)年、39歳の彼は所轄機関長である東京府知事と激しく衝突、一度は校長を辞任する。しかし、彼の熱意と手腕なしに学校の維持は不可能であった。翌年、学校の管轄が農商務省に移管され「東京商業学校」と改称されると、再び校長に復帰する。1885(明治18)年、管轄が文部省に移ると、東京外国語学校が吸収合併される。これに対し、二葉亭四迷をはじめとする旧外語の学生たちが激しく反発、中退者が続出する異常事態となる。それでも二郎は怯まない。国家の商業エリートを育てるという一点において妥協せず、強権的ともいえる手腕で組織を統率し、日本最初の商業学校の基礎を盤石なものへと固めていく。
 

第三章 最高学府への昇格と魂の継承

 

 1887(明治20)年、幾多の危機を乗り越えた東京商業学校は、「高等商業学校」へと改組される。43歳の二郎の目の前で、私塾に過ぎなかった学舎が、日本初の官立商業学校として確固たる地位を築いた瞬間である。実業界を牽引するエリート教育機関としての土台が完全に確立した。

 

 しかし、強烈な個性と信念で学校を牽引してきた二郎の専権的な運営手法は、次第に自由を求める学生たちとの間に摩擦を生む。1893(明治26)年、49歳となった彼に対し、高等商業学校の生徒による激しい排斥騒動が勃発。二郎は抗うことなく、自ら校長の座を退く決断を下す。自らが育て上げた学生たちが、権力に盲従せず自らの意思で立ち上がったという事実は、ある意味で彼の目指した「自主独立の実学教育」が結実した皮肉な証でもあった。


 校長を退いた後も、彼は東京商業会議所名誉会員や貴族院議員などを務めながら教育と実業の発展を陰から支え続け、1906(明治39)年、62歳でこの世を去る。


 江戸幕府の瓦解から近代国家への過渡期。多くの旧幕臣が武力闘争や立身出世に走る中、彼は刀を捨て、官の保護を失った私塾を政治闘争と財政難の泥沼から救い出した。幾度もの廃校の危機を身を挺して防ぎ、実業界の最高学府へと押し上げた男の執念。商法講習所から高等商業学校、そして現代の一橋大学へと至る道を切り拓いた。

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