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正木直彦
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年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)
「美術学校31年の治世」
正木直彦の大学“始まり”物語
序章 教育行政家、その実務の道
1862年、和泉国堺に生まれます。後に東京美術学校校長として31年の長きにわたって美術学校を治め、美術行政家として日本の美術界に秩序と安定をもたらした正木直彦は、1892年に東京帝国大学法科大学を卒業します。
美術との出会いは、初任地となった古都・奈良の地にありました。奈良県尋常中学校長として赴任した正木直彦は、日本の古美術の奥深さに触れ、帝国奈良博物館の委員としてその調査研究に深く関与します。この経験が、日本の文化を守り育てる美術行政家への土壌を育てました。文部省に入省後、冷静な実務能力と美術への深い造詣を武器に、着実にその地位を築いていきます。
第一章 美術学校騒動、学校存亡の危機
正木直彦が歴史の表舞台に立つ契機となったのは、日本の美術界を震撼させた「美術学校騒動」でした。当時、日本美術中心主義を掲げる岡倉天心と長年その排斥対象となってきた西洋画家たちの対立が激化。不倫問題を口実に、専権的な学校運営を行ってきた岡倉天心が東京美術学校校長より追放されることとなる騒動が勃発します。師を慕う横山大観ら日本画科の教官たちも一斉に辞職、学校は分裂状態に陥ります。
創立者を失い、日本画と西洋画の対立が最高潮に達した美術学校にあって、この混乱を収拾、学校を再建する調停者の役目を担ったのが文部官僚であった正木直彦でした。1901年、岡倉天心の後を継ぎ、東京美術学校校長に就任します。
第二章 美術学校、31年の治世
調停者に徹した正木直彦は、黒田清輝率いる西洋画科と岡倉天心の流れを汲む日本画科という、決して相容れない二大勢力の間を取り持ちました。両者の存在を認め、互いに切磋琢磨できる安定した教育環境を、忍耐強く築き上げていったのです。
日本の美術界発展への貢献は、学内だけに留まりません。1907年、黒田清輝らと共に政府に働きかけ、初の官設展覧会である「文部省美術展覧会(文展)」を設立します。これは、それまで各派閥が個別に活動していた美術界にあって、文部省が後ろ盾となって国家的な評価軸を創り出すという画期的な事業でした。美術教育の場を安定させ、発表の場を制度として整備する。その治世は、実に31年という長きに及びました。
作家揃いの美術学校を統制するという難事業を終え、1932年に校長の職を辞します。退任後の1935年、長年にわたる功労を記念して美術学校敷地内に正木記念館が建てられました。調停者としての偉大な功績は、日本の美術界、東京藝術大学の歴史に深く刻まれています。


