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横山秀麿(横山大観)
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年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)
「師の魂を継ぐ、近代日本画の革新者」
横山大観の大学“始まり”物語
序章 天心との出会い、日本画への転身
幕末明治維新前夜の、1868年。水戸藩士の家に生まれた横山大観は、尊王攘夷思想の志士として活躍する一方、絵画に興味を抱き鉛筆画を学ぶ青年に育ちます。彼の運命を決定的に変えたのは、岡倉天心が明治政府の西洋化の奔流に逆らって立ち上げた、日本の美の魂を守り育てるための官立美術教育機関、東京美術学校でした。1889年の開校に先立ち、第一期生入学を目指して入学試験に鉛筆画で臨みます。しかし、受験者の多くが鉛筆画で受験すること、また皆が著名な師の下で学んできたことを知り、試験直前に毛筆画での受験に変更。無事、合格を果たします。
東京美術学校で待っていたのは、生涯の師となる校長・岡倉天心と教授・橋本雅邦との出会い。そして後に苦楽を共にする同期生、下村観山・西郷孤月といった俊英たちとの出会いでした。また第三期生として入学した菱田春草は、生涯を通じて共に日本画の新境地を開拓することになる無二の親友となります。西洋の模倣ではない、日本の精神性を核とした新しい日本美術の創造という壮大な岡倉天心の理念の下。若き横山大観はこの学び舎で芸術家人生を歩み始めます。
第一章 師と共に、在野からの挑戦
東京美術学校で助教授にまでなった横山大観でしたが、人生最大の決断を迫られる事件が訪れます。日本美術中心主義を掲げる校長・岡倉天心と西洋画家たちとの対立が激化し、校長の専権的な学校運営に対する不満が高まる中。1898年、恩師・岡倉天心が学内外のスキャンダルを背景に校長の職を追われるという、世に言う「美術学校騒動」が勃発。橋本雅邦をはじめ、横山大観・菱田春草ら主要な教師陣たちが師を追って一斉に東京美術学校を辞職します。
在野にあって日本美術を巡る闘いの道を選んだ岡倉天心たちは、美術団体・日本美術院を設立。官を追われた者たちの不屈の挑戦の始まりとなります。生活は困窮を極めましたが、彼らの芸術への情熱は衰えませんでした。横山大観は菱田春草と共に、従来の日本画が生命線としてきた輪郭線を排し、色彩の濃淡によって空気や光を表現する革新的な画法を次々と発表します。しかし、後に「朦朧体」と揶揄されるこの先進的な試みは、保守的な画壇から「朦朧として正体ない」と猛烈な批判を浴びます。描いた絵が一枚も売れないという、苦難の日々が続いたのでした。
第二章 世界が認めた革新、そして師の死
国内で酷評の嵐に晒され、活動が行き詰まりを見せていた中。横山大観に新たな道を示したのもまた、師・岡倉天心でした。ボストン美術館に迎えられた岡倉天心の勧めにより菱田春草と共にインド・アメリカ・ヨーロッパを歴訪、各地で相次いで展覧会を開きます。日本では理解されることがなかった画風が、海外の展覧会で意外なほど高い評価を受けます。この国際的な成功が横山大観の大きな自信となり、やがて逆輸入される形で日本国内での再評価へと繋がっていきます。1907年、官設の文部省美術展覧会(文展)が始まると、かつて「異端」とされた彼がその審査員に任命されました。彼の画風が国内で公的に認められた象徴的な出来事となります。
しかしその栄光の最中、横山大観の精神的支柱を揺るがす悲劇が訪れます。1913年、生涯の師である岡倉天心がその波乱の生涯を閉じます。師を失った衝撃は計り知れず、日本美術院の活動もまたその灯が消えようとしていました。門人代表として師の弔辞を読んだ横山大観の胸には、悲しみと共に、新たな決意が宿ります。近代日本画の革新者として、師が遺した理想の火を自らの手で再び灯さなければならない、と。
第三章 師の魂を継ぐ、日本美術院の再興
下村観山ら残された同志たちと共に、精神的支柱を失い停滞していた日本美術院の再興に乗り出します。それは、自らが画家として大成する以上の重い責任を背負うことでした。1914年、彼らは再興日本美術院(院展)を旗揚げします。それは師の理想を継承し、在野から官展に対抗しうる、自由で革新的な創作活動の場を再び創り出すという、高らかな宣言でした。
以後、横山大観は近代日本画壇の重鎮として、その生涯を日本美術院の発展に捧げます。1937年、第一回文化勲章を受章。かつて反骨の画家と見なされた男は、名実ともに日本画壇の最高権威へと登りつめました。師の魂を継ぎ、近代日本画の革新を続けた至高の芸術家。その精神は、近代日本美術史に不滅の光を放っている。


