top of page

ダイガクコトハジメ - 柳田藤吉 - 大学の始まり物語

出身校

関連する学校・組織(前史)

関連する学校・組織(現代)

 

関連する教育者

 

参考情報

参考文献・書籍

このページをシェアする

 

柳田藤吉

  • 柳田藤吉|大学事始「大学の 始まり”物語。」

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)​

​「北門義塾、商人が未来に残した遺産」

柳田藤吉の大学“始まり”物語

序章 時代の風を掴んだ商人


 日本が封建の時代から近代国家へと大きく舵を切る、まさにその激動の渦中。1838年、盛岡の商家に生まれた藤田藤吉は、早くから商いの道を志します。1854年、わずか17歳にして北の大地・箱館へと渡り、呉服・海産物問屋「柳屋」を開業。海外との交易が始まる時代の変化を鋭敏に感じ取り、特に昆布貿易で大きな成功を収めました。

 彼の商才が最も発揮されたのは、幕末から明治維新へと続く動乱期です。戊辰戦争の混乱の中で武器商人としても活動、巨万の富を築いたとされています。それは時代の荒波を乗りこなし、機を見るに敏な一人の商人が自らの才覚で掴み取った莫大な財産でした。
しかし、柳田藤吉が歴史に名を刻んだのは巨万の富を築いたからのみではありません。その富を、日本の未来へと投資、教育という遺産を残した姿にあります。
 

第一章 富の使い道、教育への転身


 明治という新しい時代が幕を開けた時、柳田藤吉の胸には一商人としての成功を超えた、新たな野心が芽生えていました。自らが築いた財産を日本の未来のために役立てたい、という強い社会的責任感です。1869年、彼は当代一流の知識人であった福澤諭吉箕作麟祥の門を叩き、その思いを打ち明けます。二人が柳田藤吉に勧めたのは、私財を投じ、これからの日本を担う人材を育てるための洋学校を設立することでした。

 彼は即座に決断、私財を投じて洋学校・北門義塾を創立します。この壮大な試みに、当時日本最大の財閥であった三井家も賛同。早稲田の地に所有していた屋敷を校舎として提供します。一介の商人が始めた教育事業は、当代最高の知識人と大財閥を巻き込み、新時代の文明開化を象徴するプロジェクトへと発展しました。それは、柳田藤吉が単なる豪商から、国家の未来を育む教育のパトロンへと転身を遂げた、輝かしい瞬間でもあります。

 

第二章 閉塾と、継承される礎


 大きな期待を背負って開校した北門義塾でしたが、その運営は困難を極めました。財政難など問題が重なり、1872年、志半ばにしてわずか三年で閉校のやむなきに至ります。しかし、柳田藤吉の教育事業の挫折はここで終わりませんでした。

 北門義塾が閉校してから10年後の1882年、日本の政界に大きな嵐が吹き荒れます。明治十四年の政変で下野した大隈重信が、在野から国家の未来を担う人材を育成すべく、東京専門学校の設立を構想していました。その時、学校設立を実現する場所として選ばれたのが、早稲田の地にあったかつての北門義塾の校舎でした。

 柳田藤吉が蒔いた教育の種は、大隈重信という時代の偉大な教育者の手に渡り、その壮大な教育理念を宿すための礎となります。その志は東京専門学校、そして現在の早稲田大学へと受け継がれていきました。

 

第三章 北の大地の開拓者


 教育事業に一つの区切りをつけた後も、柳田藤吉の情熱が衰えることはありませんでした。その情熱は再び自らの事業の原点である北の大地、北海道へと注がれます。1876年、日本初の大規模な洋式牧場を開設するなど、明治政府の国策であった北海道開拓事業に深く関与。その発展に生涯を捧げます。

 函館や根室を拠点に、銀行を設立。地域の産業を振興させ、後年には北海道会議員そして衆議院議員として政治の場からも北海道の発展に尽力しました。1909年、72歳でその波乱に満ちた生涯を閉じるまで、彼はまさしく北の大地の開拓者であり続けたのです。

青山学院大学_KDP.png
bottom of page