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ダイガクコトハジメ - 安積艮斎 - 大学の始まり物語

安積艮斎
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年表

安積艮斎

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  • 安積艮斎|大学事始「大学の 始まり”物語。」

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約3,000文字(読了目安:5-10分程度)​

「幕府官学の頂点に立った異端児」

安積艮斎の大学”始まり”物語

序章 屈辱からの出奔、江戸での苦学

 18世紀末、江戸幕末前夜。1639(寛永16)年のポルトガル船来航禁止より海外との交渉を断ち、永らく続く鎖国の中で太平の眠りを謳歌していた日本であったが、緩やかな行き詰まりを見せ始めていた。北方の海にロシア船が出没、幕府は寛政の改革により引き締めを図るものの、時代の閉塞感が列島を覆っていた。


 1791(寛政3)年、陸奥国郡山(現在の福島県郡山市)の安積国造神社で、第55代宮司・安藤親重の三男として安積艮斎が生まれる。神職の家に生まれ、幼少より学問に親しんだ艮斎であったが、その歩みは若くして大きな壁に突き当たる。1806(文化3)年、16歳となった艮斎は近村の里正(村役人)である今泉家へ婿入り。しかし、結婚生活はわずかな期間で破綻する。妻に疎まれ、離縁を突きつけられたのである。当時の農村社会において、婿入り先からの離縁は深刻な不名誉であり、地域社会における居場所の喪失を意味した。この出来事は艮斎の自尊心を根底から破壊したが、同時に彼を郷里から引き剥がし、学問によって己の存在を証明するという決意へと駆り立てた。


 翌年、17歳の艮斎は郷里を出奔、単身で江戸へと向かう。彼が門を叩いたのは、当時江戸で名声を博していた儒学者・佐藤一斎の塾であった。実家からの支援を持たない艮斎は正規の門人ではなく、塾の雑務や師の身の回りの世話を担う「学僕」として身を投じる。掃除や水汲みといった過酷な肉体労働の対価として、学ぶことを許される日々。一斎は幕府の正統学問である朱子学を教授しつつも、内に実践主義的な陽明学を修める柔軟な思想家でもあった。この一斎の姿勢が、権威に盲従せず実社会に通用する知を求める艮斎の学問的基盤を形成する。1810(文化7)年に幕府の大学頭である林述斎にも入門、官学の正統な系譜をも吸収していく。個人的な屈辱を起点とした執念の苦学が、艮斎の人生を切り拓いていったのである。

 

第一章 私塾「見山楼」の異端性
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 1814(文化11)年、24歳となった艮斎は、江戸神田駿河台の幕府旗本・小栗家の屋敷内に私塾「見山楼」を創立する。この塾の存在は、当時の儒学界において極めて異質であった。

 

 寛政異学の禁以降、幕府は朱子学以外の学問を異端として統制していた。しかし艮斎は、見山楼において朱子学を軸としながらも、体制側から警戒されていた陽明学やその他の学問、さらには宗教思想までも貪欲に受容する。彼の目は過去の経典にとどまらず、同時代の世界情勢にも向けられていた。やがて艮斎は、蘭学者・儒学者・技術者・幕臣などが身分を超えて集う「尚歯会」にも参加する。渡辺崋山らと深く交わり、西洋の最新知識や国防の危機意識を共有したのであった。
 

 1842(天保13)年、清国がイギリスに大敗したアヘン戦争の衝撃は、旧態依然とした日本の学問体系に引導を渡す。長州藩の吉田松陰は、伝統的な山鹿流兵学の無力さを痛感。西洋兵学を求めて江戸へ出た際、佐久間象山らとともに艮斎に師事している。松陰だけではない。見山楼には高杉晋作、岩崎弥太郎、安場保和、秋月悌次郎、小栗忠順、清河八郎、前島密など、後に幕府側・倒幕側に分かれて日本史を動かす若者たちが身分を問わず集結したのだった。その数は2000人を超えたとされる。
 

 彼らが艮斎のもとに集った理由は明白である。迫り来る西洋列強の脅威に対し、机上の空論ではない、国家の存亡を切り抜けるための「実学」がそこにあったからだ。艮斎は、海外事情に通じた海防論の論客として、来るべき国難に立ち向かうための思想的武器を若者たちに授け続けたのである。

 

第二章 実学の継承と、近代日本への接続

 

 1832(天保3)年、42歳で『艮斎文略』を出版、安積艮斎の名声は確固たるものとなる。1836(天保7)年に郷里・二本松藩の出入儒となり、1843(天保14)年には藩校・敬学館の教授に任じられる。そして1850(嘉永3)年、60歳を迎えた艮斎は、幕府最高学府である昌平坂学問所(昌平黌)の教授に抜擢されることとなる。切米200俵と15人扶持という待遇であった。異端の思想を説き、外国事情にも通じる私塾の主が、体制の根幹を成す官学の頂点に立ったのである。これは幕府自身が、身分や正統性よりも「実用に足る知性」を渇望し始めた証左であった。


 その直後、艮斎が説き続けた危機が現実のものとなる。1853(嘉永6)年7月、マシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が浦賀沖に姿を現した。黒船来航である。幕府老中首座・阿部正弘は、未曾有の国難に対して「安政の改革」を断行、広く意見を求める。
 

 ここで艮斎は、一介の学者として沈黙することはなかった。彼は幕府の外交業務の最前線に引き出される。ペリーが持参したアメリカ合衆国大統領の国書を翻訳、さらに長崎に来航したロシアの使節エフィム・プチャーチンへの返書起草にも携わる。同時に、幕府に対して独自の外交意見書『盪蛮彙議』を提出。外国の軍事的脅威を正確に分析し現実的な対応を迫るその内容は、彼が長年培ってきた実学と海防論の集大成であった。国家存亡の危機において、自らの学問を直接的な国政の場へと還元し、実践してみせたのである。

 


第三章 実学の継承と、近代日本への接続

 

 1859(安政6)年、23歳の谷干城が江戸へ出て艮斎のもとで朱子学を学んだ。後に明治新政府の陸軍少将として西南戦争を戦い抜き、学習院長も務める人物である。しかし艮斎自身は、その後の歴史の激動を見届けることはなかった。1861(万延元)年11月、新しい時代の扉が完全に開く直前に、艮斎は70歳でこの世を去った。


 見山楼や昌平黌で艮斎の教えを受けた者たちが、明治維新という壮大な国家改造の原動力となる。前島密は近代日本の郵便制度を創設、岩崎弥太郎は海運業から三菱財閥を興して日本経済の屋台骨を築き、小栗忠順は横須賀製鉄所を建設して近代工業の礎を据えた。彼らがそれぞれの分野で発揮した構想力と実行力は、艮斎が説いた「現実の課題を解決するための学問」という哲学の実践に他ならない。

 

 そして艮斎が晩年に教授を務め、実学の精神を注ぎ込んだ昌平黌は、明治維新後に昌平学校となり、蕃書調所を起源とする開成学校医学校と統合・再編を繰り返しながら、現在の東京大学へと発展していく。日本の近代的な高等教育は、明治政府が突然西洋から直輸入して完成したものではない。列強の脅威という絶望的な状況下で、旧来の学問の枠を打ち破り、国家の生き残りをかけて新たな知を模索した安積艮斎のような先駆者たちの苦闘があった。その土壌の上にこそ、現代に連なる日本の大学の歴史は築かれているのである。一人の青年の個人的な屈辱から始まった学問への執念は、日本の近代化という壮大なうねりとなり、今もなお高等教育の精神的支柱として生き続けている。

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