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坪内逍遥
年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)
「早稲田文学の源流」
坪内逍遥の大学”始まり”物語
序章 文学の萌芽、同志との出会い
幕末の動乱が始まったばかりの1859年。美濃国加茂郡太田宿(現・岐阜県美濃加茂市)に尾張藩士太田代官所手代の子に生まれます。幼少期に実家のある名古屋の笹島村へ戻り、父から漢学を学びました。また母の影響で貸本屋に通い、読本・草双紙などの江戸戯作や俳諧、和歌に親しむなど早くから文学の世界に没頭しました。特に滝沢馬琴に心酔、日本の伝統文学への深い理解を培っていきます。
明治維新の変革の中、愛知外国語学校に入学。西洋の学問と英語を学び、東京開成学校へ進学。近代日本の最高学府として東京大学が創立されたその翌年、1878年に東京大学文学部政治科に入学します。ここで彼は、共に早稲田を生み育てることになる若き俊英たちと出会います。同級に生涯の親友となる高田早苗、そして天野為之・市島謙吉といった同志たちです。彼らは互いに切磋琢磨し、日本の将来を担うという強い志を共有していきます。特に高田早苗とは無二の親友として互いの思想形成に影響を与え合い、彼の勧めにより西洋小説も広く読むようになりました。
第一章 近代文学の旗手、そして早稲田への参画
東京大学の講義で政治学を学ぶ傍ら、自身の文学的探求のために西洋文学や演劇ほか専門外の文学系講義も積極的に聴講しました。文学の傾倒により卒業論文の提出や必要科目の履修に時間がかかり、高田早苗らより1年遅れての大学卒業となりました。また、当時の東京大学は国を挙げて実学を重視する傾向にあり、文学、特に西洋文学は主要な研究対象として軽視されがちでした。彼の文学への深い情熱と探求心が十分に満たされることがない中、新たな道を指し示したのは、またも高田早苗でした。
先に大学を卒業した高田早苗は、大隈重信の側近の一人として東京専門学校の創立に深く関わっていました。東京専門学校の学校運営の協力を要請され、これに応じます。1883年、坪内逍遥は東京専門学校の講師に就任します。彼は英書・西洋史・社会学・憲法論・修辞学・心理学など多岐にわたる講義を受け持ち、草創期の学園の教育体制を強化する上で必要不可欠な存在となります。
この時期、坪内逍遥は日本の近代文学史に決定的な一歩を記します。1885年、27歳になった彼は評論『小説神髄』を発表します。これはそれまでの勧善懲悪や因果応報といった旧態依然とした日本の文学観を打破、「写実主義」を提唱する画期的な文学理論書となります。そしてその理論を実践すべく、小説『当世書生気質』を著作します。この小説では、彼の大学予備門時代から東京大学在学中にかけての学生生活、親友・高田早苗ら同級生と神保町の天ぷら屋に通うなど交流の姿が色濃く描かれました。こうして、日本の近代小説が夜明けを告げます。坪内逍遥は教鞭を執るのみでなく、自ら筆を執り、新しい時代の文学の形を模索していました。これは「学問の独立」を掲げる東京専門学校の精神を、文学の分野で実践する姿でもありました。
第二章 シェイクスピアとの出会い、日本演劇の革新
坪内逍遥の知的探求は、文学理論と創作のみに留まりません。彼は西洋文学、特にイギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピアの作品に深い関心を抱いていました。1884年よりシェイクスピア『ジュリアス・シーザー』の翻訳に着手。彼の翻訳活動は、日本の演劇界・文学界に多大な影響を与える始まりとなります。シェイクスピアの戯曲が持つ普遍的な人間描写、そして演劇が社会に与える影響力に魅せられた坪内逍遥は、その翻訳と研究に生涯を捧げることになります。
1890年、シェイクスピアと近松門左衛門の本格的な研究に着手。東西の演劇研究に深く入り込み、彼の演劇革新への情熱が具現化していきます。同年9月、東京専門学校に文学科が誕生。彼のシェイクスピア講義は東京専門学校独自のものであり、花形講師となります。後に「早稲田といえば文科」と言われるほどの学風を築いていきます。翌1891年に雑誌『早稲田文学』を創刊、日本の文学界に大きな影響を与える言論活動を展開します。
坪内逍遥が目指したのは単なる娯楽としての演劇ではなく、近代社会にふさわしい芸術としての演劇の確立でした。1897年、戯曲として新歌舞伎『桐一葉』などを書き、歌舞伎を近代劇として革新する試みを開始。そして1906年、島村抱月らと文芸協会を開設。新劇運動の先駆けとなるのです。この協会を拠点に、演劇の創作・上演、そして俳優の育成に取り組み、日本の近代演劇運動を牽引していきます。
坪内逍遥が特に力を注いだのは、1909年から独力で取り組み始めたシェイクスピア全集の翻訳でした。『ハムレット』に始まり『詩編其二』に至るまで、その全作品を翻訳刊行する偉業を成し遂げます。彼は原文のニュアンスを正確に伝えつつ、日本の読者にも理解しやすい言葉でシェイクスピアの世界を再現することに心血を注いだのです。この翻訳事業は、日本の演劇界に多大な影響を与え、多くの劇作家や演出家・俳優たちに新たなインスピレーションを与えます。文学と演劇を通じ、人々の精神を豊かにし、社会に新しい価値を創造しようと試みたのです。
終章 早稲田文学の精神的礎、そして不朽の夢
東京専門学校がその名を改め、早稲田大学として総合大学へと発展していく過程において。坪内逍遥は常に文学部の中心にいました。早稲田大学の「学問の独立」の精神を文学の分野で体現、その後の「早稲田文学」と呼ばれる独自の学風の礎を築いた坪内逍遥は、高田早苗・天野為之・市島謙吉らと共に「早稲田四尊」の一人として早稲田の歴史に名を刻みました。