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ダイガクコトハジメ - 北里柴三郎 - 大学の始まり物語

北里柴三郎

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北里柴三郎

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  • 北里柴三郎|大学事始「大学の 始まり”物語。」

 

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)​

「医学界の異端児」

北里柴三郎の大学”始まり”物語

序章:肥後の頑固少年、医学の使命に目覚める
 

 北里柴三郎の物語は、日本の近代化がまだ黎明の光の中にあえいでいた時代に、その第一歩を記します。1853年、肥後国(現・熊本県小国町)の庄屋の長男として生を受けた彼は、幼少期より、その剛直な気性の片鱗を見せていました。母・貞の厳しい教育のもと、親戚の家に預けられて漢学を修める日々は、彼の学問への基礎を築くと同時に、何ものにも屈しない反骨精神を育んだのです。

 彼の人生が、その後の日本の医学史を塗り替えるほどの巨大な潮流へと乗り出すきっかけとなったのは、1870年のことでした。熊本藩の藩校・時習館が閉鎖され、新たに設けられた熊本医学校への入学。そこで彼は、オランダ人医師コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトと運命的な出会いを果たします。マンスフェルトの、患者一人ひとりに向き合う真摯な姿勢と、その根底にある科学的探究心に触れた時、北里柴三郎の魂は激しく揺さぶられました。この時、彼の胸に一つの確固たる信念が刻み込まれます。「医者の真の使命は、病にかかった者を治療することにあるのではない。病そのものを未然に防ぐことにあるのだ」と。この「予防医学」という生涯を貫くテーマは、この肥後の若き医学生の心に灯った、最初の、そして最も情熱的な炎でした。

 


第一章:世界の頂へ、そして恩人との邂逅
 

 マンスフェルトの強い勧めを受けて上京した北里柴三郎は、東京医学校(後の東京大学医学部)を卒業後、長與專齋が率いる内務省衛生局へと入ります。彼の才能と情熱を見抜いた長與專齋は、1885年、北里柴三郎を国費留学生としてドイツへ派遣しました。世界の細菌学研究の中心地、ベルリン。そこで彼は、近代細菌学の父、ローベルト・コッホの門を叩きます。

 コッホの研究室は、まさに世界の俊英が集う戦場でした。その中で北里柴三郎は、持ち前の忍耐力と執念で研究に没頭します。そして1889年、彼は世界の医学界を震撼させる偉業を成し遂げました。それまで不可能とされていた破傷風菌の純粋培養に、世界で初めて成功したのです。さらに翌年、彼は破傷風菌の毒素を中和する「抗毒素(抗体)」を発見し、それを応用した「血清療法」という画期的な治療法を確立します。それは、人類が初めて感染症を根本的に治療する術を手にした、歴史的な瞬間でした。

 しかし、世界の頂点を極めた彼を日本で待っていたのは、栄光の凱旋ではありませんでした。脚気菌を巡る論争などをきっかけに、彼は母校である帝国大学医科大学のアカデミズムと激しく対立し、国内での研究の場を失うという絶望的な窮地に立たされたのです。この時、日本の医学研究のともしびが、権威主義の前に消えようとしていました。その危機を救ったのが、教育界の巨人・福澤諭吉でした。北里柴三郎の窮状を憂慮した福澤諭吉は、長與專齋・森村市左衛門らと共に私財を投じ、一人の傑出した研究者のために、芝公園に私立の「伝染病研究所」を設立するという前代未聞の決断を下します。それは、北里柴三郎という個人のためだけではなく、日本の学問の未来そのものを守るための、偉大な英断に他なりませんでした。

 


第二章:私設研究所から、世界を驚かす
 

 福澤諭吉によって与えられた研究の城において、北里柴三郎の才能は再び爆発的な輝きを放ちます。1894年、香港でペストが大流行した際には、政府の要請を受けて現地に赴き、病原体であるペスト菌を発見するという歴史的快挙を成し遂げます。さらに彼の指導のもと、1897年には研究所員の志賀潔が赤痢菌を発見。北里柴三郎が率いる小さな私設研究所は、世界の医学研究をリードする、巨大な知的拠点へと変貌を遂げたのです。

 「ドンネル(雷おやじ)」と渾名されるほど、北里柴三郎の弟子への指導は厳格を極めました。しかしその厳しさの根底には、科学に対する一切の妥協を許さない誠実さと、後進を世界レベルの研究者に育て上げようとする深い愛情がありました。彼は、単に研究成果を出すだけでなく、次代の研究者を育成する「人づくりの場」としての研究所の役割を、誰よりも強く意識していました。やがて「伝染病の研究は、国家の衛生行政と一体で推進されるべきである」という信念に基づき、1899年、彼はこの伝染病研究所を国に寄付します。それは、彼の公への奉仕の精神の証でした。しかし、この決断が、後に彼の生涯最大の闘いの引き金となることを、まだ誰も知る由はありませんでした。

 


第三章:“学問の独立”を賭けた闘いと、次代への継承
 

 1914年、北里柴三郎の人生を揺るがす事件が起こります。「伝研騒動」です。政府は、北里柴三郎や所管の内務省に一切の事前相談なく、国立伝染病研究所文部省に移管し、東京帝国大学の付属機関とする旨を一方的に閣議決定しました。それは、研究の現場を無視した、あまりに官僚的な決定でした。

 この時、北里柴三郎の怒りは頂点に達します。これは単なる組織の移管問題ではありませんでした。彼が命を懸けて守り、育ててきた「研究の自由」と「学問の独立」そのものが、権力によって踏みにじられることに他ならなかったのです。彼は、志賀潔北島多一をはじめとする全職員と共に一斉に辞表を提出するという、前代未聞の行動をもって抵抗の意志を示します。そして同年11月、私財のすべてを投げ打ち、新たに「北里研究所」を設立。まさに不撓不屈の魂が、国家権力に対して自らの信念を貫き通した瞬間でした。

 この北里研究所の設立こそが、彼の教育者としての物語のクライマックスであり、始まりでした。1917年、彼はかつて最大の恩人であった福澤諭吉への「報恩」として、慶應義塾が設立する慶應義塾大学医学科(後の医学部)の創設に全面協力します。彼は初代学長に就任すると、自らの研究所から北島多一志賀潔ら選び抜かれた弟子たちを教授として送り込み、その教育と研究の礎をゼロから築き上げたのです。それは、福澤諭吉から受けた「恩」を、学問の継承という最も気高い形で次代へと繋いでいく、壮大な継承のドラマでした。

 1931年、脳溢血により78年の生涯を閉じるまで、北里柴三郎は日本医師会の初代会長として全国の医師をまとめ、日本の医学界全体の発展にその身を捧げました。彼の生涯は、病原菌という見えざる敵との闘いであると同時に、「学問の独立」という理念を守り抜くための闘いでもありました。彼が遺した北里研究所、そしてその精神が深く息づく慶應義塾大学医学部は、単なる研究機関や教育機関ではありません。それは、一人の人間の不屈の魂が、私財や名誉を越えて次代への継承を願い、創り上げた、日本の近代医学における不滅の「始まり」の物語そのものなのです。

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