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北里大学
年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)
「報恩の志に生きて」
北里大学の大学”始まり”物語
序章:近代医学の扉を拓く
日本の夜明け、ペリー来航の年に肥後国阿蘇の地に生を受けた一人の若者が、後に世界の医学史にその名を刻むことになるとは、まだ誰も知る由もありませんでした。北里柴三郎の物語は、日本が近代国家へと歩みを進める激動の時代そのものと軌を一にしていました。
1875年、近代教育制度の礎たる学制発布から程なくして、北里柴三郎は東京医学校の門を叩きます。在学中からその探究心の強さは際立ち、教授に鋭い問いを投げかける彼の姿がありました。この時すでに、彼の胸の内には「病気の原因を窮理し、その発生を未然に防ぐ」という、予防医学への強い志が宿っていたのです。それは、対症療法が主流であった時代において、病の根源に迫ろうとする革新的な視点でした。
1886年、長與専斎が率いる内務省衛生局での実務経験を経て、北里は国費留学生としてドイツ・ベルリン大学へと渡ります。当時の細菌学研究における世界的権威、ローベルト・コッホの研究所の扉を叩いたことは、彼の、そして日本の医学の運命を決定づける転機となりました。ここで北里柴三郎の才能は一気に開花します。1889年、世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功。翌1890年には、血清の「免疫」作用を利用して病気を治療する「血清療法」を確立しました。この画期的な治療法は、感染症との闘いに新たな地平を切り拓き、世界の医学界に衝撃を与えたのです。この業績は、まさしく近代医学の扉をこじ開けた「開拓」の精神の輝かしい結実でした。
第一章:報恩と挑戦の研究所
6年間にわたる留学を終え、世界的な名声と共に帰国した北里柴三郎を待っていたのは、しかし、賞賛ばかりではありませんでした。脚気菌を巡る論争などで母校の帝国大学医科大学と対立し、彼は国内での研究の場を失うという危機に直面します。世界最高峰の研究成果を携えた才能が、このまま埋もれてしまうのか。その状況を憂えた人物がいました。福澤諭吉です。
かねてより北里柴三郎の才能を高く評価していた福澤諭吉は、教育者であり思想家である自身の信念に基づき、長與専斎・森村市左衛門らと共に私財を投じることを決断します。国家有為の才能を、派閥や面子によって潰えさせてはならない。その強い意志が、1892年、芝公園内の私有地に、日本初の私立伝染病研究所を誕生させたのです。北里柴三郎は、その初代所長に就任しました。この支援に対し、北里柴三郎は生涯を通じて深い感謝の念を抱き続けました。福澤諭吉への「報恩」の精神は、後に北里研究所、そして北里大学を貫く理念の柱の一つとなったのです。
研究所は、設立されるや否や、日本の医学研究を牽引する拠点として目覚ましい成果を上げ始めます。1894年、政府の要請で香港へ渡った北里柴三郎は、現地で猛威を振るっていたペストの原因菌を発見。1897年には、研究所員の志賀潔が赤痢菌を発見するなど、彼の指導のもと、世界レベルの研究が次々と生まれました。さらに、当時不治の病とされた結核の治療・予防のため、日本初の結核専門サナトリウム「土筆ヶ岡養生園」を開設。研究の成果を社会へ還元する「叡智と実践」は、この時からすでに始まっていました。
第二章:学問の独立を懸けた闘争
1899年、北里柴三郎は「伝染病研究は国家の衛生行政と一体であるべき」との信念から、私立伝染病研究所を国に寄付し、研究所は内務省管轄の国立機関となります。しかし、その安定は長くは続きませんでした。日本の医学界と官界を揺るがす「伝研騒動」の勃発です。
1914年、第2次大隈重信内閣は、突如として伝染病研究所を内務省から文部省へと移管し、東京帝国大学の付属機関とする旨を閣議決定しました。それは、衛生行政の実践的研究よりも大学の基礎教育を優先するという「文政一元化」政策の現れであり、同時に、独自の勢力を持つ北里柴三郎の研究所を自らの傘下に収めたい東京帝国大学の思惑が働いた結果でした。
この決定に対し、北里柴三郎と研究所の全職員は猛然と反発します。研究の現場を無視した一方的な決定は、学問の独立性を著しく侵害するものである。彼らは、その誇りと信念を懸け、一斉に辞表を提出するという実力行使に出ました。それは、国家権力に対する研究者たちの魂の抵抗でした。しかし、その願いも虚しく、1916年、政府は移管を強行。北里柴三郎とその弟子たちは、自ら育て上げた研究所を去ることを余儀なくされたのです。
だが、物語はここで終わりませんでした。彼は私財のすべてを投じ、新たな研究の拠点を設立することを決意します。権力に屈して学問の魂を売ることを拒んだ「不撓不屈」の精神が、1916年、新たな「北里研究所」を誕生させたのです。そして、旧研究所を去った職員のほとんどが、彼のもとに馳せ参じました。それは、北里柴三郎という人物への絶大な信頼と、学問の自由を守り抜こうとする強固な意志の繋がりを示す、歴史的な出来事に他なりません。
第三章:百年の計、未来への継承
新たな北里研究所を率いながら、北里柴三郎はもう一つの重要な事業に着手します。若き日の恩人、福澤諭吉への「報恩」を果たすためでした。1917年、慶應義塾が慶應義塾大学医学科を創設するにあたり、北里柴三郎は全面的な協力を申し出、初代医学科長(後の医学部長)に就任。さらに、北島多一や志賀潔といった研究所の精鋭たちを教授として派遣し、慶應義塾大学医学部の礎を築き上げたのです。
1931年、日本の近代医学の父、北里柴三郎は78年の生涯に幕を閉じました。しかし、その遺志は弟子たちによって確かに受け継がれ、北里研究所は戦時中のペニシリン製造など、国民の命を守るための研究を続けました。
そして1962年、北里研究所の創立50周年を記念する事業として、一つの壮大な計画が実現します。学校法人北里学園の設立、そして北里大学の開学です。それは、北里柴三郎がその生涯をかけて追求した「叡智と実践」を、研究という形だけでなく、次代を担う人間の育成を通じて未来へ繋いでいこうとする決意の表れでした。大学が最初に設置したのが、時代の要請に応える衛生学部であったことは、かつて北里が抱いた予防医学への志が、半世紀の時を超えて教育という形で結実したことを象徴していました。
ドイツの研究所で近代医学の扉を拓いた「開拓」の精神。福澤諭吉の恩に報いようとした「報恩」の心。研究成果を社会へ還元する「叡智と実践」の姿勢。そして、権力に屈さず学問の独立を貫いた「不撓不屈」の魂。北里柴三郎の生きた証そのものであるこれらの建学の精神は、今、北里大学という学び舎に深く刻み込まれ、生命科学の未来を担う新たな世代へと、脈々と受け継がれているのです。