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佐久間象山

ダイガクコトハジメ - 佐久間象山 - 大学の始まり物語

佐久間象山
佐久間象山_KDP.png

 

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約3,000文字(読了目安:5-10分程度)​

「知の公開、実学の精神」

佐久間象山の大学”始まり”物語

序章 才気煥発なる儒学者の原点

 19世紀初頭、日本列島は200年以上続く鎖国の中、未だ泰平の眠りにあった。1811(文化8)年3月、信濃国松代(現在の長野県長野市)に松代藩士・佐久間一学国善の長男として佐久間象山が生まれる。佐久間家は5両5人扶持という微禄であったが、父は藩主の側右筆を務め、剣術の達人として重用される人物であった。象山も幼少より才気を現し、郷里の藩儒より高く評価される。
 

 1826(文政9)年、16歳になった象山は佐藤一斎の門下生・鎌原桐山に入門、経書を学ぶ。同時に和算や水練を修め、文武両道の基礎を築いていく。1828(文政11)年に18歳で家督を継ぐと、自作の漢文百篇を提出、藩主・真田幸貫から銀を下賜されるほどの学業勉励ぶりを示す。1832(天保3)年、22歳で武芸大会における不遜な態度を咎められ閉門処分を受けるも、父の病状悪化により赦免。直後に父の死という悲哀を経験する。


 翌1833(天保4)年、23歳の象山は江戸へ出る。当時の儒学第一人者である佐藤一斎の門を叩き、朱子学を深く学んだ。彼は山田方谷と共に「佐門の二傑」と称されるほどの頭角を現す。1839(天保10)年、29歳の象山は江戸神田に私塾「象山書院」を創立、儒学を教え始める。しかし同年、幕府の鎖国政策を批判した蘭学者が弾圧される「蛮社の獄」が発生。世界の動向から目を背ける幕府の姿勢と、厳しさを増す言論統制。時代の暗雲は、若き儒学者の足元にも確実に忍び寄っていた。
 

 

第一章 アヘン戦争の衝撃と五月塾の創立
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 象山の学問的軌跡を決定的に変えたのは、東アジアを揺るがす国際情勢であった。1842(天保13)年、清国がイギリスに大敗したアヘン戦争である。同年、老中兼海防掛に任じられた藩主・真田幸貫の顧問に抜擢される。海外情勢を研究した彼は、国防の急務を訴える『海防八策』を上書。これを機に、伝統的な儒学から蘭学・洋学修得へと大きく舵を切る。


 1844(弘化元)年、34歳の彼はオランダ語をはじめ自然科学や兵書に精通すべく、象山書院を閉じて江川英龍の下で洋式兵学を学ぶ。象山の教育に対する態度は極めて近代的であった。旧来の秘伝や門外不出といった閉鎖的な教育方法を嫌い、自らが学んだ知識の「公開」を基本とした。免許皆伝を求める門弟の申し出も、その必要がないとして断っている。知は国家を救うための共有財産であるという、実学の精神の体現である。


 1850(嘉永3)年、40歳となった象山は蘭学を背景に大砲の鋳造やガラス製造、地震予知器の開発に成功。西洋砲術家としての名声を確固たるものとする。同年、江戸木挽町に「五月塾」を創立。砲術と西洋学を講じるこの塾には、勝海舟吉田松陰、坂本龍馬、橋本左内など、後に幕末から明治維新を牽引する俊才たちが身分や藩の垣根を越えて続々と入門した。


 彼の歩みは決して順風満帆ではなかった。1851(嘉永4)年、41歳の象山は松前藩の依頼で鋳造した洋式大砲の演習を行うが、砲身が爆発し全壊。観衆から大笑いされ、役人から激しく責め立てられた。しかし象山は平然と「失敗するから成功がある」と言い放つ。「今の日本で洋式大砲を製造できるのは僕以外にいない」と豪語する不屈の自信。実践と失敗を繰り返しながら真理に迫る、真の実学者の姿がそこにあった。
 

第二章 黒船来航と、連座による投獄

 

 1853(嘉永6)年7月、マシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に姿を現す。黒船来航である。43歳の象山は松代藩の軍議役として浦賀へ赴き、老中・阿部正弘に『急務十条』を奏上する。国家存亡の危機を前に、彼は門弟の吉田松陰へ暗に外国行きを勧めた。敵を知らねば国は守れないという、切迫した現実認識である。


 松陰はロシア軍艦への密航を企てるも失敗。そして翌1854(嘉永7)年、日米和親条約締結のために再来航したペリーの艦隊に対し、下田港で再び密航を企てるも失敗、自首する。国禁を犯した弟子の行動により、象山も連座の罪に問われた。伝馬町牢屋敷への入獄。幕府の一部からは松陰と共に死罪を求める声も上がったが、辛くも助命され、故郷・松代での蟄居を命じられる。


 国家の危機に最も深い知見を持つ洋学者が、法によってその活動を封じられるという矛盾。象山の蟄居は1862(文久2)年まで続くこととなる。しかし、彼が蒔いた「実学」と「知の公開」という種は、彼の不在の間にも確実に芽吹き始めていた。
 

第三章 実学の精神と近代大学への系譜 

 

 象山の五月塾には、中津藩江戸藩邸の藩士たちも多数入門していた。彼らは象山から洋式砲術と蘭学を学び、中津藩邸内に蘭学塾を設立。象山が投獄・蟄居となった後、後任の蘭学教師を探すこととなる。その白羽の矢が立ったのが、適塾で学んでいた若き日の福澤諭吉である。1858(安政5)年、福澤は中津藩邸の蘭学塾の講師に就任する。この塾こそが、後の慶應義塾大学の源流となる。象山の開かれた実学の精神は、思わぬ形で近代大学の礎へと繋がっていったのである。


 1864(元治元)年、54歳となった象山は一橋慶喜に招かれて上洛。尊皇攘夷派の志士が潜伏する不穏な京都において、堂々と公武合体論と開国論を説いた。しかし同年8月12日、京都三条木屋町において刺客の手にかかり暗殺される。享年54。時代の先を見すぎた巨大な知性は、幕末の凶刃によって唐突にその生涯を閉じた。


 象山に実学を学んだ俊英たちにより、維新回天が進められていく。五月塾で学んだ坂本龍馬が薩長同盟を成立させ、勝海舟が江戸城無血開城を成し遂げる。吉田松陰の弟子たちは明治維新を断行した。旧来の秘伝主義を打破し、国家を救うための「生きた学問」を公開した佐久間象山。失敗を恐れず真理を追究した不屈の洋学者の精神は、慶應義塾をはじめとする日本の近代的な高等教育機関の根底に、確かな熱量を持って今も息づいている。

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