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文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。

長崎海軍伝習所 | ​『福翁自伝』福沢諭吉 -15

 ソレカラ私が江戸に来た翌年、即《すなわ》ち安政六年冬、徳川政府から亜米利加《アメリカ》に軍艦を遣《や》ると云《い》う日本|開闢《かいびゃく》以来、未曾有《みぞう》の事を決断しました。


 扨《さて》その軍艦と申しても至極《しごく》小さなもので、蒸気は百馬力、ヒユルプマシーネと申して、港の出入《でいり》に蒸気を焚《た》くばかり、航海中は唯《ただ》風を便《たよ》りに運転せねばならぬ。二、三年前、和蘭《オランダ》から買入れ、価《あたい》は小判で二万五千両、船の名を咸臨丸《かんりんまる》と云う。その前、安政二年の頃から幕府の人が長崎に行《いっ》て、蘭人に航海術を伝習してその技術も漸《ようや》く進歩したから、この度《たび》使節がワシントンに行くに付き、日本の軍艦もサンフランシスコまで航海と斯《こ》う云う訳《わ》けで幕議《ばくぎ》一決、艦長は時の軍艦奉行|木村摂津守《きむらせっつのかみ》、これに随従する指揮官は勝麟太郎《かつりんたろう》、運用方は佐々倉桐太郎《ささくらきりたろう》、浜口興右衛門《はまぐちおきえもん》、鈴藤勇次郎《すずふじゆうじろう》、測量は小野友五郎《おのともごろう》、伴鉄太郎《ばんてつたろう》、松岡磐吉《まつおかばんきち》、蒸気は肥田浜五郎《ひだはまごろう》、山本金次郎《やまもときんじろう》、公用方には吉岡勇平《よしおかゆうへい》、小永井五八郎《こながいごはちろう》、通弁官は中浜万次郎《なかはままんじろう》、少年士官には根津欽次郎《ねづきんじろう》、赤松大三郎《あかまつだいざぶろう》、岡田井蔵《おかだせいぞう》、小杉雅之進《こすぎまさのしん》と、医師二人、水夫|火夫《かふ》六十五人、艦長の従者を併《あわ》せて九十六人。


 併《しか》しこの航海に就《つい》ては大《おおい》に日本の為《た》めに誇ることがある、と云《い》うのは抑《そ》も日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎に於《おい》て和蘭《オランダ》人から伝習したのが抑《そもそ》も事の始まりで、その業《ぎょう》成《なっ》て外国に船を乗出《のりだ》そうと云うことを決したのは安政六年の冬、即《すなわ》ち目に蒸気船を見てから足掛《あしか》け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、夫《そ》れで万延元年の正月に出帆しようと云うその時、少しも他人の手を藉《か》らずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその伎倆《ぎりょう》と云い、是《こ》れだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う。


初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号



文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。


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