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ダイガクコトハジメ - 近衛篤麿

近衛篤麿

近衛篤麿

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年表

近衛篤麿

このえあつまろ

1863(文久3)年8月10日(旧暦・6月26日) - 1904(明治37)年1月1日

政治家・貴族院議長、学習院第7代院長、日本女子大学校(現・日本女子大学)設立発起人

  • 1863(文久3)年8月10日(旧暦・6月26日) 近衛篤麿(1歳)、山城国京都(現・京都府京都市)に左大臣・近衛忠房と島津斉彬の娘・貞姫の間に長男として生まれる。

  • 1873(明治6)年 近衛篤麿(11歳)、家督を継がないまま父・近衛忠房が病没。祖父・近衛忠煕の養子という形で家督を相続。

  • 1879(明治12)年 近衛篤麿(17歳)、大学予備門入学。病を得て退学を余儀なくされる。以後、和漢に加え英語を独学で勉強。

1884(明治17)年7月7日 華族令

制度取調局局長・伊藤博文を中心に制定。華族を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵に区分。旧公家の華族は家格により、旧大名の華族は石高により爵位受爵。また、国家に勲功ある者を新たに華族に列する。爵位は代々世襲される(永世華族)。1889(明治22)年貴族院令にて、同爵の互選により貴族院議員となる特権を持つ。華族令制定直後の7月中に509名の有爵者が誕生。

  • 1884(明治17)年 近衛篤麿(22歳)、華族令制定、公爵に。

  • 1885(明治18)年 近衛篤麿(23歳)、ドイツ・フランスに留学。ボン大学、ライプツィヒ大学に学ぶ。

​1889(明治22)年2月11日公布 1890(明治23)年11月29日施行 大日本帝国憲法(明治憲法)

君主大権のプロイセン憲法(ドイツ憲法)を参考に、伊藤博文が日本独自の憲法を草案。明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出され、大日本帝国憲法を発布。国民に公表される。

明治新政府は大政奉還・王政復古を経て、天皇の官制大権を前提に近代的な官僚機構構築を目指し、直接的君主政に移行。大日本帝国憲法第10条にて、「官制大権が天皇に属する」と規定。

版籍奉還を経て、土地と人民に対する統治権を藩・藩主より天皇に奉還。天皇の下に中央政府が土地・人民を支配、統治権(立法・行政・司法)を行使。廃藩置県を経て、国家権力が中央政府に集中。大日本帝国憲法第1条および同4条にて、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定。同時に、人民の財産権・居住移転の自由を保障。等しい公務就任権を規定。兵役の義務を規定。

衆議院と貴族院の両院制による帝国議会を開設、華族の貴族院列席特権を規定。

  • 1890(明治23)年 近衛篤麿(28歳)、帰国。貴族院議員に。貴族院の院内会派として同志会を結成。

  • 1890(明治23)年 谷干城(54歳)、貴族院議員に、政界復帰。帝国議会が開会を迎えると、学習院で掲げた皇室の藩屛たらんとし、政党・政府から自立して懇話会に属す。地租増徴に反対するなど、独自の政治運動を展開。明治天皇や元田永孚からは枢密院か宮中入りを望まれたが、それを断る。政界から皇室を守ることを決断した上での貴族院入りに。

  • 谷干城、国粋主義、農本主義的立場から、藩閥とも板垣退助ら民権派とも異なる保守的な中正主義で土佐派の重鎮として重きを成す。政治思想は天皇に忠誠を尽くす皇室崇敬、衆議院政党と政府からの独立および監視、政党・政府関係なく政策を吟味し国民の利益になる場合は賛成、そうでない内容では反対する是々非々主義、国民の利益を重視する国家主義を唱える。この思想は貴族院のほとんどの有力者が掲げ、貴族院全体が目指す普遍的な目標となり、同じく政界入りした曾我祐準と、主張が一致する三曜会の領袖・近衛篤麿と組んで政争に立ち向かう。

  • 1891(明治24)年 近衛篤麿(29歳)、同志会を三曜会と改称。同じく五摂家出身の二条基弘らと共に三曜会に属し、谷干城らが結成した懇話会と共同歩調を取る。後に三曜会が衰退すると朝日倶楽部と合併、同じく活動が低調になった懇話会とも合併、新たに結成した土曜会に移り活動を続ける。

  • 1892(明治25)年 -  近衛篤麿(30-歳)、貴族院議長の要職を担ったが、藩閥政府に常に批判的な立場をとり続ける。第1次松方内閣にて、樺山資紀海軍大臣の蛮勇演説を廻って紛糾、空転。衆議院を初めて解散して行われた第2回総選挙にて、品川弥二郎内務大臣が中心となって行った極めて大規模かつ徹底した選挙干渉の結果、弾圧された民党側に死者25名・負傷者388名を出すという空前の惨事に。これをうやむやにすることを決して許さず、政府の姿勢を舌鋒鋭く追及。さらに政党も猟官主義に走ればそれは単なる徒党にすぎないと、当時の政治を批判。松方正義、大隈重信、山縣有朋、伊藤博文からの入閣の誘いを全て断る。

  • 1893(明治26)年 近衛篤麿(31歳)、外交政策において清を重視。特に日清戦争後、積極的に清をめぐる国際問題に関わる。東邦協会副会頭に。日清戦争後、西欧列強が清分割の動きを激しくしていく中、危機感を抱く。

  • 1893(明治26)年 近衛篤麿(31歳)、日本と中国は同文同種と主張、同文会設立。アジア主義の祖たる興亜会やアジア主義の巨頭である犬養毅の東亜会、さらに東邦協会と善隣協会の一部などを吸収、東亜同文会となる。会長就任。民間諸団体を糾合し国家主義、アジア主義大同団結運動を企み、康有為との会談ではアジア・モンロー主義を主張。

  • 1895(明治28)年 近衛篤麿(33歳)学習院第7代院長に。華族子弟の教育に力を注ぐ。ノブレス・オブリージュを果たすため、学習院が高い水準の教育機関であるよう組織を整備。必要な財源の確保と財務のあり方を確立することに尽力。

  • 1896(明治29)年 辻新次(55歳)、大日本教育会と伊沢修二創設の国家教育社を統合、帝国教育会設立。会長職を貴族院議長・近衛篤麿に譲る。

  • 1900(明治33)年 近衛篤麿(38歳)、東亜同文会、アジア主義的色彩の強い立場に立脚。中国・朝鮮の保護と日本の権益保護のため、外務省・軍部と密接に提携。南京同文書院(後に東亜同文書院)設立。対中政治・文化活動を推進。また、清朝内で強い権力を持つ地方長官・劉坤一(両江総督)や張之洞(湖広総督)などへ独自に接近、日清の連携を持ちかける。

  • 1900(明治33)年6月 近衛篤麿(38歳)、義和団の乱が勃発、ロシアが満州を占領下に。強い危機感を抱き、元老・伊藤博文や山県有朋らにロシアに対して強硬な姿勢を取るよう持ちるも一蹴される。

  • 1900(明治33)年9月 近衛篤麿(38歳)、犬養毅・頭山満・陸羯南・中江兆民ら同志を糾合、国民同盟会を結成。日本政府に対する批判をますます強める。

  • 1903(明治36)年 近衛篤麿(41歳)、玄洋社の頭山満と平岡浩太郎や黒龍会の内田良平も名を連ねる対露同志会を結成。

  • 1903(明治36)年 近衛篤麿(41歳)、貴族院議長を辞任、枢密顧問官に。

  • 1904(明治37)年1月1日 近衛篤麿(42歳)、小川平吉と頭山満らが近衛篤麿を首相とする内閣を作ろうと活動する中、病没。享年42歳。

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