松下村塾

 

玉木文之進

たまきぶんのしん

1810(文化7)年9月24日/10月22日 - 1876(明治9)年11月6日

1810(文化7)年9月24日/10月22日

  • 玉木文之進、長州萩に長州藩士で無給通組・杉常徳(七兵衛)の三男として生まれる。

1820(文政3)年6月

  • 玉木文之進(9歳)、家格で杉家より上にあたる大組士、40石取りの玉木正路(十右衛門)の養子に。家督を継ぐ。

1842(天保13)年

  • 玉木文之進(31-32歳)、畳一間の私塾を開き、「松下村塾」と名付ける。少年だった甥・吉田松陰も入門。指導は非常に厳格なもので、吉田松陰が授業中、顔にとまった蚊を払って殴られた話が伝わる。親戚の乃木希典も教育を受ける。

1843(天保14)年

  • 玉木文之進(32-33歳)、大組証人役として出仕。

1856(安政3)年

  • 玉木文之進(45-46歳)、吉田代官に任じられる。以後、各地の代官職を歴任、名代官と謳われる。

1857(安政4)年

  • 吉田松陰(26-27歳)、叔父・玉木文之進が主宰する「松下村塾」の名を引き継ぎ、杉家の敷地に「松下村塾」開塾。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育、幕末より明治期の日本を主導した人材を数多く輩出。一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」であった。

1859(安政6)年

  • 玉木文之進(48-49歳)、郡奉行に栄進するが、安政の大獄に甥・吉田松陰が連座されると、助命嘆願に奔走。

1859(安政6)年10月27日/11月21日

1860(万延元)年11月

  • 玉木文之進(50歳)、甥・吉田松陰処刑、監督不行き届きにより代官職を剥奪。

1862(文久2)年

  • 玉木文之進(51-52歳)、郡用方に復職。

1863(文久3)年

  • 玉木文之進(52-53歳)、奥阿武代官として再び藩政に参与。当役(江戸行相府)に進む。長州藩内では尊王攘夷派として行動、毛利一門家厚狭毛利家・毛利親民の参謀を兼ねる。

1866(慶応2)年

  • 玉木文之進(55-56歳)、第2次長州征伐、萩の守備に務める。

1869(明治2)年

  • 玉木文之進(58-59歳)、奥番頭に進むも、退隠。

1871(明治4)年

  • 玉木文之進(60-61歳)、再び「松下村塾」塾頭に。場所を自宅に移す。子弟の教育に努める。

1876(明治9)年11月6日

  • 玉木文之進(66歳)、前原一誠による萩の乱に養子・玉木正誼ほか門弟の多くが参加。責任を取る形で先祖の墓の前で自害。享年、66歳。「松下村塾」は再度途絶。