ダイガクコトハジメ - 高橋景保
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高橋景保
たかはしかげやす
1785(天明5)年 - 1829(文政12)年3月20日(旧暦・2月16日)
蛮(藩)書和解御用(後に洋学所・蕃書調所、東京大学の源流)創立
1639(寛永16)年 - 1854(嘉永7)年 鎖国政策
江戸幕府がキリスト教国(スペイン・ポルトガル)人の来航、および日本人の東南アジア方面への出入国を禁じ、貿易を管理・統制・制限。1853(嘉永6)年7月8日、浦賀へアメリカのペリー・マシュー率いる黒船来航。1854(嘉永7)年3月31日、日米和親条約締結により、開国に至る。
この間、江戸幕府の天領・長崎が、日本で唯一西ヨーロッパに開かれた貿易港として繁栄。出島に移設されたオランダ商館を通じ、オランダ・中国と貿易。
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1785(天明5)年 高橋景保(1歳)、大阪に天文学者・高橋至時の長男として生まれる。弟は、渋川景佑。
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高橋景保(幼少時~)、才気に富み、天文学者の父・高橋至時に暦学を学んで通暁。オランダ語にも通じる。
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1804(享和4/文化元)年 高橋景保(20歳)、父・高橋至時の跡を継ぎ、江戸幕府天文方に。天体観測・測量、天文関連書籍の翻訳などに従事。間重富の助けを受け、浅草の天文台を統率。優れた才能と学識でその地位を全う。
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1810(文化7)年 高橋景保(26歳)、『新訂万国全図』制作。一方、江戸幕府天文方・高橋至時に師事していた伊能忠敬の全国測量事業を監督、全面的に援助。
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1810(文化7)年 高橋景保(26歳)、ロシア使節ニコライ・レザノフが来日、持参した満洲文による国書を翻訳、『魯西亜国呈書満文訓訳強解』作成。
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1811(文化8)年 高橋景保(27歳)、江戸幕府天文方内に蛮(藩)書和解御用(後に洋学所・蕃書調所、東京大学の源流)設置を提唱、設立。主管に。『厚生新編』訳出を始める。大槻玄沢・宇田川榕菴・青地林宗など優秀な蘭学者が翻訳官に任命される。
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1821(文政4)年8月7日(旧暦・7月10日) 高橋景保(37歳)、伊能忠敬の死後、実測結果を基に『大日本沿海輿地全図』を完成させる。
- 1814(文化11)年 高橋景保(30歳)、書物奉行兼筆頭に。
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1816(文化13)年 高橋景保(32歳)、ワリシー・ゴローヴニン『日本幽囚記』がロシアで出版。その誤った記述を正すため、ゴローヴニン事件で共に逮捕したムール少尉の『獄中上表』をオランダ語訳。ヨーロッパで出版する計画を推進する。シーボルト事件により果たせず。
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1824(文政7)年 - 1828(文政11)年 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(27-31歳)、オランダ陸軍軍医として来日、長崎出島に居住。貿易のため、日本研究も命じられる。当時、外国人は出島を出ることは許可されていなかったが、医師として特別に許される。長崎郊外に私塾・鳴滝塾設立、オランダ医学・自然科学を教える。高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・戸塚静海ら50人以上が学ぶ。
1825(文政8)年 異国船打払令
江戸幕府が発した、日本沿岸に接近する外国船は見つけ次第に砲撃、追い返すとした外国船追放令。上陸外国人については逮捕を命じる。フェートン号事件・大津浜事件・宝島事件を受けて発令したものとみられる。また水戸の漁民たちが沖合で操漁する欧米の捕鯨船乗組員と物々交換を行っていたことが発覚、300人余りが取り調べを受けた事件が重要な動機となっている。
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高橋景保、樺太東岸の資料を求めていたところ、シーボルトよりクルーゼンシュテルン『世界周航記』などが贈られる。その代わりに、伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈る。日本地図は当時、禁制品扱いとなっており、これをシーボルトが持ち出そうとしたことが事件の発端となる。
1828(文政11)年9月 シーボルト事件
オランダ商館付医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが日本から帰国する直前。国外持ち出し厳禁の日本地図が見つかる。これを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか、十数名が処分。高橋景保は獄死。
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1828(文政11)年11月16日(旧暦・10月10日) 高橋景保(44歳)、シーボルト事件に関与、主犯格であるとして伝馬町牢屋敷に投獄される。
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1829(文政12)年3月20日(旧暦・2月16日) 高橋景保(45歳)、獄死。享年45歳。
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