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ダイガクコトハジメ - 鍋島閑叟 - 大学の始まり物語

鍋島直正(鍋島閑叟)
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年表

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鍋島直正(鍋島閑叟)

  • 鍋島直正(鍋島閑叟)|大学事始「大学の 始まり”物語。」

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約3,000文字(読了目安:5-10分程度)​

​「教育で国を興す、佐賀藩校・弘道館」

鍋島直正(鍋島閑叟)の大学”始まり”物語

序章 破綻した藩政と実学への眼差し

​ 1815(文化12)年、肥前佐賀藩に鍋島直正が生まれる。1819(文政2)年、5歳の直正の教育係となったのが、儒学者の古賀穀堂だった。穀堂は幼き世子に対し、旧態依然とした学問にとどまらない西洋技術の重要性や、実学に基づく人材育成の必要性を説き続ける。


 1830(天保元)年、16歳の直正は第10代藩主となる。しかし、彼が引き継いだ佐賀藩の財政は完全に破綻していた。長崎警備の重い負担に加え、先代の浪費や台風の甚大な被害が重なっていたのである。直正は藩政改革に乗り出すが、保守勢力の激しい抵抗に遭い停滞する。


 

第一章 教育で国を興す

 1831(天保2)年、17歳の直正に対し、恩師である穀堂は意見書『済急封事』を提出する。『葉隠』の精神論のみを崇拝する藩内の風潮を痛烈に批判、身分を問わない人材の抜擢による抜本的な藩政改革を訴えた。穀堂の思想は、直正の生涯を貫く「教育による近代化」の確固たる原動力となる。


 1835(天保6)年、21歳の時、佐賀城二の丸が大火で全焼する。直正はこの危機を逆手にとり、城の再建に乗じて歳出削減を断行、産業育成で財政を強制的に立て直していく。


 1840(天保11)年、清国がイギリスに敗北したアヘン戦争の衝撃。欧米列強の脅威を前に、26歳の直正は藩校「弘道館」を大拡張する。財政再建のさなかでありながら、教育予算を170石から1,000石へと増額。穀堂の教えに従い、出自を問わず優秀な若者を次々と政務の中枢へ登用する教育改革を断行する。
 

第二章 幕末の雄と英学校創立

 軍事と教育の近代化を推し進める直正は、1851(嘉永4)年、37歳で弘道館に医学寮と蘭学寮を設置する。さらに精錬方を設け、反射炉を建設。独自に育成した技術力でアームストロング砲や蒸気船の自藩製造をも成し遂げ、佐賀藩を「幕末の雄」と呼ばれる強大な近代国家へと押し上げたのである。


 さらに1867(慶応3)年、53歳となった直正は、若き日の大隈重信や副島種臣らに命じて長崎に英学校「致遠館」を設立。宣教師フルベッキを校長に迎え、新約聖書やアメリカ合衆国憲法を教材にして教育を開始。教頭格として自らも教壇にも立った大隈重信の教育者としての原点、早稲田大学の源流がここにある。

 

第三章 明治国家の設計者たちへの系譜


 1868(明治元)年、大政奉還を経て、明治新政府を樹立。反発する旧幕府軍との間に戊辰戦争が勃発。直正が独自に育成した人材と最新兵器は、新政府軍の勝利に決定的な役割を果たす。54歳の直正は明治新政府の議定に就任、翌1869(明治2)年には諸藩主の中でいち早く版籍奉還に賛同を示す。


 1871(明治4)年、鍋島直正は57歳でこの世を去る。しかし、彼と穀堂が莫大な予算を投じて拡充した弘道館や致遠館の教育は、明治国家を創る巨大な原動力となっていた。ここから巣立った大隈重信江藤新平大木喬任、副島種臣らは、新政府の中枢に次々と登用される。破綻した小藩を「教育」の力で「幕末の雄」へと押し上げた名君。彼らが育て上げた数多の英傑たちは、そのまま近代日本の教育・司法・政治制度を設計する中心となり、現代の国家基盤として力強く脈打っているのである。

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