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ダイガクコトハジメ - 鍋島閑叟 - 大学の始まり物語

鍋島直正(鍋島閑叟)

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鍋島直正(鍋島閑叟)

  • 鍋島直正(鍋島閑叟)|大学事始「大学の 始まり”物語。」

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)​

​「教育で国を興す、佐賀藩校・弘道館」

鍋島直正(鍋島閑叟)の大学”始まり”物語

序章 佐賀藩校・弘道館の拡充

​ 「教育で国を興す」。実学を実践した鍋島直正の物語は、日本が未曾有の危機に瀕していた幕末激動期にその幕を開けます。1815年、肥前佐賀藩に第9代藩主・鍋島斉直の十七男として生を受けた彼は、わずか16歳にして第10代藩主の座を継承します。当時の佐賀藩は長崎警備の重責に加え、先代の放漫財政、そしてシーボルト台風による甚大な被害によってまさに破綻寸前の状況にありました。この絶望的な状況下で、鍋島直正は藩の立て直しという重責を負います。

 若き藩主がまず着手したのは、藩の精神的支柱たる教育の刷新でした。儒学者・古賀穀堂を年寄相談役に抜擢、藩校・弘道館の拡充と優秀な人材の育成・登用という教育改革に乗り出します。古賀穀堂は具申した意見書『済急封事(さいきゅうふうじ)』の中で、「人才の登用」・「勤倹の奨励」・「藩士の三病(妬忌嫉妬・優柔不断・負け惜しみ)の除去」を藩政改革の基本と論じます。この思想は、儒学を重んじつつも医学や蘭学といった「実学」の振興の必要性を訴えるものであり、鍋島直正のその後の藩政改革の理念的支柱となるのです。1835年に佐賀城二の丸が大火で全焼するという災禍に見舞われますが、鍋島直正はこれを機に歳出削減と産業育成を断行。藩財政の改善を果たすとともに、改革への揺るぎない意志を示します。「父子親の如し」と慕った古賀穀堂を1836年に失いますが、その教えを生涯の指針としたのです。


 

第一章 西洋の衝撃と、実学教育への転換

 鍋島直正を「実学」の道へと決定的に導いたのは、1840年のアヘン戦争でした。清国の敗北は日本に欧米列強の脅威をまざまざと突きつけます。長崎警備を担う佐賀藩にとって、この危機感は一層切実なものでした。幕府の支援が得られない中、鍋島直正は藩の存亡と国家の独立を守るため、独自に西洋の軍事技術導入を決断します。彼は「富国強兵」を最優先課題とし、科学技術の導入と人材育成を一体で推進しました。精錬方を設置、反射炉などの最新技術を導入することで後にアームストロング砲をはじめとする西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功します。さらに蒸気船や西洋式帆船の基地として三重津海軍所を設置、蒸気機関や蒸気船の製造にも成功します。幕末期における「蘭癖大名」とも渾名された鍋島直正の徹底的な西洋化の試みは、明治維新後の日本の産業と軍事力の近代化を地方で先取りするものでした。

 彼の実学重視の姿勢は、医学の分野にも及びます。1843年、蘭方医・伊東玄朴を藩医に招聘、西洋医学導入に積極的な姿勢を示しました。1849年に佐賀藩内で天然痘が大流行した際には、伊東玄朴の進言を受けて長崎出島のオランダ商館を通じ牛痘種痘苗を入手します。漢方医の抵抗を押し切り、藩主自らが佐賀城内で種痘接種を受けることでその安全性を保証。蘭方医学の普及を促進しました。この痘苗は長崎・佐賀を起点に日本全国へ伝播、多くの人々の命を救うことになります。そして1851年、佐賀藩校・弘道館内に医学寮と蘭学寮を設置。伝統的な儒学中心の教育に西洋医学と蘭学という実践的な学問を本格的に取り入れ、来るべき時代に対応できる人材の育成を強化しました。

 

 この弘道館での蘭学教育強化と並行して、新たな英学教育の場を模索します。1866年、調査のために大隈重信・副島種臣を長崎に派遣。その結果を受けて、1867年に佐賀藩諫早家の屋敷内に英学校・致遠館を設立しました。翌年、オランダ人宣教師グイド・フルベッキが校長として招かれます。致遠館では新約聖書とアメリカ合衆国憲法をテキストとし、欧米の政治制度・法制度の講義や議論が盛んに行われました。大隈重信もフルベッキに学びながら、副島種臣と共に教頭格として教壇に立って学校運営と教育に熱中します。この致遠館での大隈重信の経験が、後に東京専門学校、現在の早稲田大学が誕生する源流となるのです。

第二章 維新の礎と、人材育成の遺志

 幕末の動乱期において。江戸幕府老中・阿部正弘からの意見募集に対し、鍋島直正はアメリカの武力外交に対する強固な攘夷論を唱えます。一方で開国以前から密貿易で利益を上げていたとされるほど貿易の重要性を熟知しており、イギリスの親善外交に対しては開国論を主張するなど、国益を最優先する現実的かつ複雑な外交戦略を展開しました。品川台場建設に佐賀藩の技術を提供、幕府からの信頼を得たことも彼の先見性と技術力の証となります。

 1861年、鍋島直正は家督を長男・鍋島直大に譲り、閑叟と号して隠居します。しかし、明治維新を経た後も政治家としての活動は終わりませんでした。1868年の戊辰戦争では、佐賀藩が長年培ってきたアームストロング砲など最新式兵器を装備した軍を率い、上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで新政府軍に大きく貢献します。討幕運動には不熱心であった佐賀藩が「薩長土肥」の一角を担うことになったのは、まさに鍋島直正が推し進めた富国強兵策と、それによって育成された人材と技術力の賜物に他なりません。

 明治新政府が発足すると、鍋島直正は議定に就任。
軍防事務局輔や制度事務局輔を兼任するなど、日本の新たな国政運営の基礎を築くことに貢献します。1869年の版籍奉還において、知藩事として最初に賛同の意を示すことで旧藩主の立場から封建体制解体という大きな変革に積極的に協力します。開拓長官(後に大納言)に就任するなど、新政府の中央集権体制確立にも尽力しました。
 

第三章 受け継がれる「教育の魂」


 1871年、鍋島直正は57歳でその生涯を閉じます。「佐賀の七賢人」の一人に数えられ、幕末から明治維新にかけて佐賀藩を富国強兵へと導き、日本の近代化に多大な貢献を果たした名君として、その名を歴史に刻みました。彼の教育観は、藩の存亡をかけた危機の中で培われた実学重視の精神と、国家の未来を担う人材を自ら育てるという強い意志に集約されていました。

 鍋島直正が築き上げた教育の礎は、彼の死後も脈々と受け継がれていきます。学制によって日本の近代教育制度を示した、江藤新平大木喬任。日本の医学にドイツ医学を採用し、近代医療の礎を築いた相良知安など。「実学」の種が明治新政府という新たな舞台で大きく花開いていくのです。

 

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