
緒方洪庵(適々斎)
年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約3,000文字(読了目安:5-10分程度)
「不治の病と闘った、日本の近代医学の祖」
緒方洪庵の大学”始まり”物語
序章 不治の病と蘭学への目覚め
1810(文化7)年、備中国足守藩士・佐伯惟因の三男として緒方洪庵が生まれる。8歳の時、当時不治の病と恐れられていた天然痘に罹患。病の恐ろしさを身をもって体験する。
1825(文政8)年、16歳の洪庵は大坂蔵屋敷留守居役となった父と共に大坂へ出る。翌年、中天游の思々斎塾に入門、蘭学と蘭方医学の道へと足を踏み入れた。1828(文政11)年のシーボルト事件により蘭学への警戒感が高まる中、彼はひたむきに学問を続ける。
1831(天保2)年、22歳で江戸へ出た洪庵は坪井信道や宇田川玄真の下で学び、27歳で蘭学の本場である長崎へと遊学する。オランダ人医師・ニーマンに師事、西洋医学の最前線を貪欲に吸収した。
1838(天保9)年、29歳となった洪庵は大坂瓦町に戻り、医業を開業すると同時に、蘭学塾・適塾(適々斎塾)を創立する。のちに大阪大学医学部の源流となり、近代日本を牽引する無数の俊才を輩出する、壮大な教育的挑戦の幕開けである。
第一章 天然痘、コレラとの闘い
開国前夜の日本において、蘭学を取り巻く環境は極めて厳しかった。1839(天保10)年には蛮社の獄による蘭学者弾圧が吹き荒れ、1849(嘉永2)年には漢方医側の政治工作によって「蘭書翻訳取締令」が発令される。幕府医師の蘭方使用が禁じられ、医学書の翻訳や出版が厳しく制限される凄まじい逆風。
だが、洪庵の医の信念は決して揺らがなかった。1849(嘉永2)年、40歳の洪庵は、長崎の出島からオランダ商館を通じて輸入された牛痘種痘苗を京都で入手、大坂に大坂除痘館を設立する。かつて自らを苦しめた天然痘を撲滅するため、牛痘種痘法による切痘(皮膚に浅い傷をつけてワクチンをすり込む方法)を開始したのである。
新しい医療には「牛になる」という迷信による民衆の激しい反発や、もぐりの偽医者の横行という壁が立ちはだかった。それでも彼は治療費を取らずに患者を募り、関東から九州まで186箇所もの分苗所でワクチンを維持し続けた。私財と生涯を投げ打ったこの活動により、除痘館はついに国家公認の牛痘種痘法治療所として認められる。
さらに1858(安政5)年、49歳の時にコレラが猛威を振るうと、彼はわずか数日で治療手引き書『虎狼痢治準』を書き上げ、出版。100冊を医師たちに無料配布した。目の前の命を救うため、知識を独占せず広く社会に還元する。机上の空論ではない、これこそが実学の真髄である。
第二章 建学への挑戦
洪庵が創立した適塾は、日本全土から向学心に燃える若者たちを引き寄せた。その教育方針は徹底した実力主義であった。塾生は学力に応じて階級に分けられ、塾に一冊しかない蘭和辞書『ヅーフ』を奪い合うようにして予習に励む。会読の成績によって上席から順に席次が決まるため、塾生同士の競争は熾烈を極めた。一方で、医学に限らず物理や化学の実験に興じることも許される、極めて自由で自主性を重んじる学風が存在した。
1858(安政5)年、お玉が池種痘所が設立され幕府がついに蘭方医を解禁すると、適塾の存在感はさらに高まる。福澤諭吉、大鳥圭介、長與專齋、島村鼎甫。のちの近代日本を創り上げる錚々たる俊才たちが、この適塾で寝食を忘れて泥臭く原書を読み込んでいた。
その名声は幕府の中枢をも動かす。1862(文久2)年、53歳の彼に幕府から出仕要請が下る。幕府直轄の「西洋医学所」の第2代頭取への抜擢である。健康上の理由から固辞し続けた彼であったが、度重なる要請に折れて江戸へと下る。彼は直ちに西洋医学所に適塾式の輪読や討論などの学習法を取り入れ、官学の教育改革に着手した。
蘭方医の頂点である法眼に叙せられ、富と名声を得た洪庵。しかし、堅苦しい宮仕えの生活に加え、保守派からの強い風当たりと暗殺の恐怖からピストルを購入して身を守らねばならないという、命懸けの建学への挑戦であった。
第三章 魂の継承
海外事情が明らかになるにつれ、西洋医学の最先端がオランダにはないことを痛感。51歳にして新しい語学、英語の学習を志す。高価な英蘭辞書を買い求めて手探りで独習、門人や息子にも英学を学ばせるという衰えぬ向学心を示す。
西洋医学所の改革に心血を注いでいた1863(文久3)年。54歳の洪庵は、江戸の頭取役宅で突然喀血し、この世を去る。幕末の動乱の最中、あまりにも突然の死。
しかし、彼が適塾で育て上げた魂は決して消えなかった。洪庵の下で学んだ塾生たちは数千人に及び、彼らは明治新政府の医療・教育・軍事・外交の中枢を担い、日本の近代化という壮大なうねりを最前線で牽引していく。
福澤が創立した慶應義塾、適塾の後継として発展した大阪大学医学部、そして自らが頭取として基礎を築いた東京大学医学部。「日本の近代医学の祖」緒方洪庵が灯した火は、時代を超えて燃え続けているのである。
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