ダイガクコトハジメ - 神田乃武
出身校
- アマースト大学
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神田乃武
かんだないぶ
1857(安政4)年3月22日(旧暦・2月27日) - 1923(大正12)年12月30日
大学予備門教授、第一高等中学校教授、帝国大学文科大学教授、高等商業学校(現・一橋大学)教授、東京外国語学校(新外語)初代校長、学習院教授、東京女学館第4代館長、正則予備校(現・正則高等学校)創立、日本キリスト教青年会(YMCA)創立協力、貴族院議員
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1857(安政4)年3月22日(旧暦・2月27日) 神田乃武(1歳)、江戸に能楽師・松井永世の次男として生まれる。幼名は松井信次郎。
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神田乃武、蘭学者・神田孝平の養子に。
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1870(明治3)年3月 折田彦市(22歳)、岩倉具定・岩倉具経の米国留学に随行。同じくフルベッキに学んだ服部一三と山本重輔も同行。官費留学生に。フルベッキが留学斡旋。他4名はアメリカニュージャージー州ニューブラウンズウィックに入学するも、英語力不足を理由に別行動に。ミルストンの町に寄宿。一時、神田乃武と同居。
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1870(明治3)年秋 森有礼(24歳)、少弁務使としてアメリカ赴任。外債募集・文化外交の折衝を担う。在任中、英文による『信仰自由論』・『日本の教育』刊行を試みる。
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1871(明治4)年 - 1879(明治12)年 神田乃武(15-23歳)、公使・森有礼に従い、渡米。アマースト大学卒業。
1873(明治6)年4月 学制二編追加
「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。
「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。
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1873(明治6)年4月10日、学制条文追加に伴い、第一大学区第一番中学校は専門学校へと改組。第一大学区開成学校に。教授言語が原則として英語に統一されることとなる。
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1873(明治6)年8月、開成学校、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業に伴い順次廃止。
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1873(明治6)年11月4日、学制二編追加により、開成学校より「語学課程」(普通科)が分離独立。開成学校語学課程(英・独・仏の3科)・独逸学教場・外国語学所を統合。東京外国語学校(東京外国語大学の源流)創立、官立最初の語学学校に。翌1874年までに全国に8校の官立外国語学校が設立される。
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東京外国語学校、英・仏・独・清(中国)・魯(ロシア)の5語科を設置(後に英語科が分離)。朝鮮語科を増設。高等教育の基礎としての外国語教育と通訳養成教育の二重の役割を果たす。
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1873(明治6)年末、東京外国語学校、開成学校が教授言語を原則として英語に統一したことにあわせて、東京外国語学校英語科を東京英語学校として独立。
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1874(明治7)年5月、東京開成学校に改称。法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の本科に再編される。加えて、修業年限3年の予科が設けられる。
1877(明治10)年4月12日 東京大学創立
東京開成学校本科と東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部が錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。
法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。
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1877(明治10)年4月13日 加藤弘之(42歳)、東京大学法・理・文三学部綜理に。
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1877(明治10)年 服部一三(27歳)、東京大学法・理・文三学部綜理補に。東京大学予備門主幹を兼務。
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1877(明治10)年、東京英語学校と東京開成学校予科が統合、東京大学予備門(後に第一高等中学校・第一高等学校)設立。「専門学科ニ昇進スヘキ生徒ニ階梯ヲアタヘ予備学ヲ教授スルノ旨趣」とされ、東京大学法・理・文三学部入学のための基礎教育・語学教育を施す教育機関に。当初、東京大学医学部は別に予科を設ける。
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1880(明治13)年 神田乃武(24歳)、日本キリスト教青年会(YMCA)創立に協力。
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1885(明治18)年9月、高等教育の基礎としての外国語教育について、英・仏・独3語科は東京大学予備門に合併。英・仏・独以外の語学科が東京商業学校(現・一橋大学)に合併される。東京外国語学校(旧外語)は廃止に。東京商業学校への合併に対し、東京外国語学校学生が激しく反発、中退者も出現。
1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令
教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。
1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学令
高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。帝国大学初代総長に渡辺洪基を勅任。
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1886(明治19)年 神田乃武(30歳)、帝国大学文科大学教授に。ラテン語・ギリシャ語を教える。
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1886(明治19)年、学校令により、「高等中学校」の制度が成立。東京大学予備門は、第一高等中学校に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置することが定められる。第三高等中学校(京都)・山口高等中学校・第二高等中学校(仙台)・第四高等中学校(金沢)・第五高等中学校(熊本)・鹿児島高等中学造士館が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。第一高等中学校だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が帝国大学へ進学する制度に。
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1886(明治19)年 神田乃武(30歳)、第一高等中学校(後に第一高等学校)教授に。
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1886(明治19)年11月 渋沢栄一(47歳)、帝国大学教授・外山正一の「欧米人に見劣りしないために日本人女性に対する高度な教育が必要」の意見に賛同。内閣総理大臣・伊藤博文の勧説に従い、女子教育奨励会設立に協力。東京女学館の母体に。資金募集など尽力。評議員に。
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1887(明治20)年 伊藤博文(47歳)、創立委員長となり女子中等教育機関・女子教育奨励会(後に東京女学館)設立。「諸外国の人々と対等に交際できる国際性を備えた、知性豊かな気品ある女性の育成」を目指す。創立委員に、渋沢栄一・岩崎弥之助・外山正一ほか、帝国大学英語教授ジェムス・ディクソン、聖公会司教アレキサンダー・ショーなど政財官界の有力者で構成。永田町御用邸(雲州屋敷)を貸与され、校舎に。
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1889(明治22)年7月19日 神田乃武(33歳)、養父・神田孝平、死去。男爵襲爵。
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1889(明治22)年7月19日 神田乃武(33歳)、外山正一・元良勇次郎と共に、芝に正則予備校(現・正則高等学校)創立。
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1893(明治26)年 神田乃武(37歳)、高等商業学校(現・一橋大学)教授に転じる。
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1897(明治30)年4月22日、第9帝国議会にて、衆議院・貴族院が外国語学校開設を建議。日清戦争後、露・中・朝など極東諸国との交流が密になることを予測し、外交・商業の実務者育成を提言するものであった。高等商業学校(現・一橋大学)に高等商業学校附属外国語学校設置。
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1897(明治30)年9月、高等商業学校、予科1年・本科3年の上に専攻部(1年)設置。大学への昇格を目指す。
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1899(明治32)年4月21日 神田乃武(43歳)、高等商業学校より独立した東京外国語学校(新外語)初代校長に。
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1901(明治34)年1月 神田乃武(45歳)、欧州留学中の高等商業学校教授7名(石川巌・石川文吾・瀧本美夫・津村秀松・福田徳三・志田鉀太郎・関一)と共に、ベルリンにおいて『商業大学の必要』を建議。専攻部の設置・拡充や卒業者への商業学士授与を足がかりに、大学昇格運動開始。
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1902(明治35)年 神田乃武(46歳)、学習院教授に。
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1902(明治35)年 松崎蔵之助(37歳)、東京帝国大学法科大学教授に。財政学を担当。東京高等商業学校校長兼任。
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明治30年代 松崎蔵之助、金井延と共に、東京帝国大学法科大学へ社会政策学派の経済学移植に貢献、一時代を築く。ワグナーに強く影響を受ける。門下生に、柳田国男・高野岩三郎・河上肇ほか。
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1907(明治40)年、『商科大学設置に関する建議案』が帝国議会を通過。東京高等商業学校の大学昇格運動は最高潮に。
1908(明治41)年 - 1909(明治42)年 申酉事件
大学への昇格を目指す東京高等商業学校に対し、第2次桂内閣および文部省は東京帝国大学法科大学に経済・商業2科を新設し、さらに東京高等商業学校専攻部を廃止、東京帝国大学法科大学に事実上吸収する方針を決定。商業大学昇格を真っ向から否定。これにより、10年にわたる商業大学昇格運動は挫折。運動を進めてきた関一・佐野善作ら4教授は辞表を提出、松崎蔵之助校長も問責により辞職に追い込まれる。
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1908(明治41)年 松崎蔵之助(43歳)、申酉事件の責により、東京高等商業学校校長辞任。
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1909(明治42)年 關一(37歳)、東京高等商業学校専攻部廃止計画への抗議として学生たちが総退学した申酉事件に連なり、抗議の依願退官。嘱託講師に。
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1909(明治42)年 佐野善作(37歳)、東京高等商業学校専攻部廃止計画への抗議として学生たちが総退学した申酉事件に連なり、抗議の依願退官。嘱託講師に。
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文部省令により東京高等商業学校専攻部廃止。この決定に対し、東京高等商業学校は激しく反発。学生も総退学の意思を表明、紛争・学生騒動となる。事態に対し、財界の大立者であり、東京高等商業学校の商議員でもあった渋沢栄一が調停に乗り出す。文部省も折れ、東京高等商業学校専攻部の存続が決定する。東京高等商業学校の勝利により、その後の大学昇格への道が開かれることに。
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1908(明治41)年 - 1909(明治42)年 渋沢栄一(69-70歳)、文部省令により東京高等商業学校専攻部廃止が決定、東京高等商業学校が激しく反発。学生も総退学の意思を表明、紛争・学生騒動となる(申酉事件)。事態に対し、調停に乗り出す。
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申酉事件後、東京高等商業学校専攻部の後援・同窓組織として、如水会発足。
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1910(明治43)年 神田乃武(54歳)、貴族院議員に。
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1912(明治45/大正元)年 神田乃武(56歳)、東京高等商業学校教授を本務に。英語教育に力を尽くす。編纂の中学校英語教科書が広く使われる。
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1914(大正3)年 關一(42歳)、申酉事件を経て、大学教授の世界に嫌気がさす。京都帝国大学・戸田海市教授及び東京高等商業学校・小山健校長の紹介・斡旋で、池上四郎大阪市長の補佐として大阪市助役に招かれる。「栄誉ある東京高等商業学校教授を辞し、格下の大阪市助役に就任するのはどういうことか」と騒がれる。文部省や渋沢栄一からも留まるよう説得を受けるも、意思は変わらず。
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1918(大正7)年 神田乃武(62歳)、東京女学館第4代館長に。
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1920(大正9)年4月1日、高等教育拡充構想の下、東京高等商業学校専攻部を基礎に、東京商科大学(現・一橋大学)発足。念願の大学昇格を果たす。大学学部のほか、予科・附属商学専門部・附属商業教員養成所を設置。
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1920(大正9)年 神田乃武(64歳)、東京商科大学名誉教授に。
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1921(大正10)年 神田乃武(65歳)、欧米外遊、母校・アマースト大学を訪問、法学博士号(LL.D.)を授与される。
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1923(大正12)年12月30日 神田乃武(67歳)、死去。享年67歳。ローマ字運動を起こし、速記術を広めるなど、生涯にわたって英語教育に尽力。親交のあった大山捨松は、「津田梅子の次に英語が堪能な日本人」と評す。
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