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ダイガクコトハジメ - 片山東熊

片山東熊

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片山東熊

かたやまとうくま

1854(嘉永7/安政元)年1月18日(旧暦・12月20日) - 1917(大正6)年10月24日

宮廷建築家、工部省技手、太政官、外務省、皇居御造営事務局、宮内省医師、工手学校(現・工学院大学)創立

「片山東熊」に関する書籍 [外部]

  • 1854(嘉永7/安政元)年1月18日(旧暦・12月20日) 片山東熊(1歳)、長門国萩で長州藩下級藩士・片山文左、母・伊丹ハルの四男として生まれる。

  • 1865(元治2/慶応元)年 片山東熊(12歳)、奇兵隊に入隊。後年、兄・湯浅則和が兵部省の山城屋事件で山縣有朋をかばい辞職したこともあり、生涯にわたり山縣有朋の後ろ盾を得る。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年 片山東熊(15歳)、戊辰戦争に従軍。

  • 1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日) 伊藤博文(30歳)山尾庸三と共に工部省設立に尽力。鉄道技師長エドモンド・モレルの提案を受け、お雇い外国人技術者に頼るのではなく日本人技術者を養成すべきとし、教務部併設を主張。太政官制度の下、日本近代化のための社会基盤整備と殖産興業推進を目的とする中央官庁として、工部省設置。​初代工部卿として、殖産興業を推進。殖産興業は後に、内務卿・大久保利通の下、内務省へと引き継がれる。

  • 1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日) 伊藤博文(31歳)、工部省に鉄道・造船・鉱山・製鉄・電信灯台・製作・工学・勧工・土木の10寮と測量の1司を配置。山尾庸三工学寮と測量司の長官に。

  • 1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日) 山尾庸三(35歳)、工部省の10寮1司の一等寮として、技術者養成のための工学寮創設。工部権大丞として、初代工学頭に。海外留学制度・国内技能研修制度(修技校)・技術大学制度(工学校)を通し、一元的に官職技術者育成を図る。最終的に工学寮工学校のみの直轄に。

  • 1871(明治4)年11月 山尾庸三(35歳)工学寮教師団の人選を依頼していたエドモンド・モレルが急逝。代わって教師団を人選、旧知のヒュー・マセソンに雇用協力を打診、快諾を得る。グラスゴー大学より工学教師ヘンリー・ダイアーを筆頭とする俊英が選ばれる。1873(明治6)年、教師団が来日。ヘンリー・ダイアーは当初の小学校と呼ばれる複数学校群設立案を退け、工学校(大学校)設置を立案。

  • 1873(明治6)年11月、工学寮工学校、基礎課程・専門課程・実地課程(各2年)の3期6年制学校として発足。ヘンリー・ダイアーが初代都検となり、実質的に校長を務めた。土木・機械・造家(建築)・電信・化学・冶金・鉱山・造船の6学科とする学則・カリキュラムが制定される。

  • 1873(明治6)年 片山東熊(20歳)、工学寮工学校に第1回生として入学。造家(建築)学専攻。1877(明治10)年着任の外国人教授ジョサイア・コンドルに師事。

  • 1875(明治8)年 辰野金吾(22歳)工学寮工学校2年終了後、造船から造家(建築)に転じる。1877(明治10)年着任の外国人教授ジョサイア・コンドルに師事。

  • 1877(明治10)年1月、工学寮廃止。ボアンヴィル設計による、当時世界で最も優れた工業教育施設とされる本館が完成。工学寮工学校は、工部大学校に改称。初代校長に、工作局長・大鳥圭介。イギリスから招聘された技師たちの指導の下、理論研究と実地修練を組み合わせた高度な工学教育を行う。官費生には奉職義務があり、卒業後7年間は官庁で働く取り決めに。

  • 1882(明治15)年 片山東熊(29歳)、有栖川邸建設のため、有栖川宮熾仁親王と共に欧州視察。

  • 1886(明治19)年 片山東熊(33歳)、山形有朋の斡旋により宮内省入省、皇居御造営事務局に転任。明治宮殿建設の宮殿装飾調査のため、ドイツ出張。

  • 1889(明治22)年 片山東熊(36歳)、宮内省内匠寮の医師に。

  • 片山東熊、宮廷建築家として多くの離宮・皇族邸館を設計。ほか、日本赤十字社・帝国奈良博物館・京都博物館など設計。

  • 1897(明治30)年 片山東熊(44歳)、東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)建設のため、欧米視察。

  • 1898(明治31)年 片山東熊(45歳)、東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)御造営事務局技監に。西洋諸国に遜色ない宮殿を目指す国家事業を担う。

  • 1904(明治37)年 片山東熊(51歳)、宮内省内匠頭に。東宮御所御造営局技監兼任。

  • 1909(明治42)年 片山東熊(56歳)、東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)竣工。

  • 1912(明治45/大正元)年 片山東熊(59歳)、明治天皇葬祭場など建設に関わる。

  • 片山東熊、東京帝室博物館表慶館・竹田宮邸・神奈川県庁舎など設計。

  • 1914(大正3)年 片山東熊(61歳)、桃山御陵造営。

  • 1915(大正4)年 片山東熊(62歳)、宮内省退官。宮内省内匠寮在職30年の間、大小様々な宮廷工事の実現に尽くした功績に依り、宮中顧問官に。従三位勲一等旭日大綬章を受勲。

  • 1917(大正6)年 片山東熊(64歳)、死去。享年64歳。特旨により、正三位を叙せられる。

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