top of page

ダイガクコトハジメ - 永井尚志

永井尚志

出身校

関連する学校・組織(前史)

関連する学校・組織(現代)

  • 山梨大学

関連する教育者

参考情報

参考文献・書籍

年表

永井尚志

ながいなおゆき/なおむね

1816(文化13)年12月21日(旧暦・11月3日) - 1891(明治24)年7月1日

長崎海軍伝習所総監理、江戸幕府外国奉行・軍艦奉行・大目付・若年寄ほか歴任

  • 1816(文化13)年12月21日(旧暦・11月3日) 永井尚志(1歳)、三河国奥殿藩5代藩主・松平乗尹とその側室の間に生まれる。幼名、岩之丞。

  • 永井尚志(25歳頃)、父・松平乗尹の晩年の子であり、家督を養子・乗羨に譲っていたことから、旗本2,000石・永井尚徳の養子に。

  • 1847(弘化4)年4月16日 永井尚志(32歳)、小姓組番士となる。

  • 1848(弘化5/嘉永元)年 永井尚志(33歳)、昌平坂学問所学問吟味に合格。

  • 1851(嘉永4)年 永井尚志(36歳)、大試に甲で合格。昌平坂学問所の分校・甲府徽典館(山梨大学の前身)の学頭に。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

1853(嘉永6)年 安政の改革

黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事お呼び外交研究機関として、講武所・蕃書調所長崎海軍伝習所を設置。

  • 1853(嘉永6)年7月 勝海舟(31歳)、老中首座・阿部正弘の意見募集に対し、海防意見書提出。西洋式兵学校設立と正確な官板翻訳書刊行の必要を説く。これが阿部正弘の目に留まる。

  • 1853(嘉永6)年 老中首座・阿部正弘、江川英龍・岩瀬忠震・勝海舟・大久保忠寛(一翁)、永井尚志を海岸防禦御用掛へ任用。幕閣に対する諮問機関としての役割を持たせる。

  • 1853(嘉永6)年7月20日 永井尚志(38歳)、十番小姓組番頭・牧野筑後守忠直組進物番士より二番徒頭に異動。

  • 1853(嘉永6)年10月8日 永井尚志(38歳)、目付に。海防掛を兼帯。砲台普請・大砲製鋳等を担当。

  • 1853(嘉永6)年11月7日 永井尚志(38歳)、布衣に叙せられる。

  • 1854(嘉永7/安政元)年4月5日 永井尚志(39歳)、肥前国長崎赴任。

1855(安政2)年 長崎海軍伝習所設立

ペリー来航後間もなく、海防強化を急務とする江戸幕府は西洋式軍艦の輸入を決定。オランダ商館長の勧めにより、海軍士官養成のための教育機関設立を決める。長崎奉行を通じ、オランダから練習艦として帆船(後の観光丸)の寄贈を受ける。併せて、オランダ人教官隊を招聰。長崎奉行所西屋敷(現・長崎市江戸町)に長崎海軍伝習所設立。総監理に永井尚志

  • 長崎海軍伝習所にて、オランダ人教官よりオランダ語学をはじめ、航海術・造船学・砲術・測量術・機関学などが教授される。またその基礎として、西洋数学・天文学・地理学なども授けられる。幕府関係者のほか、諸藩からも多数の者が伝習に参加。これらの人々の中から、勝麟太郎(海舟)・榎本武揚ら幕臣、五代友厚・佐野常民ら諸藩士など、幕末維新期の指導的人材を数多輩出する。

  • 1855(安政2)年7月29日 永井尚志(40歳)、長崎に新設された海軍士官養成機関・長崎海軍伝習所総監理に。長崎赴任。長崎製鉄所設立に着手するなど活躍。

  • 1855(安政2)年10月20日 勝海舟(33歳)長崎海軍伝習所入所。オランダ語が堪能であった為、教監も兼ねる。伝習生とオランダ人教官の連絡役も担う。第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす。

  • 1855(安政2)年12月1日、日蘭和親条約締結、長崎海軍伝習所にて第一回の伝習が行われる。第一期生として幕府伝習生37名、諸藩の伝習生128名(薩摩藩16名・佐賀藩47名・肥後藩5名・長州藩15名・筑前藩28名・津藩12名・備後福山藩4名・掛川藩1名)が参加。オランダに発注した蒸気船2隻(後の咸臨丸・朝陽丸)の乗員養成が図られる。

  • 1855(安政2)年11月19日 永井尚志(40歳)、従五位下・玄蕃頭に叙せられる。

  • 1857(安政4)年、海軍伝習所にて第二回の伝習が行われる。

1857(安政4)年3月 築地に軍艦操練所新設

永井尚志をはじめ多数の幕府伝習生が長崎海軍伝習所より教員として動員され、長崎海軍伝習所生は45名程に勝海舟は留任。江戸から遠い長崎で伝習所を維持することが財政負担となり、幕府の海軍士官養成は軍艦操練所に一本化されることになる。

  • 1857(安政4)年5月 永井尚志(42歳)、長崎海軍伝習所での功績が賞され、江戸に呼び戻される。勘定奉行(勝手掛)に。江戸詰にて長崎御用を兼帯。

  • 1858(安政5)年7月29日 永井尚志(43歳)、岩瀬忠震と共に外国奉行に。ロシア、イギリス、フランスとの交渉を務め、通商条約調印を行う。

 

  • 1858(安政5)年 勝海舟(36歳)、外国奉行・永井尚志と水野忠徳の遣米使節建言を受け、渡米希望を伝える。受諾され、長崎より朝陽丸で帰府。軍艦操練所教授方頭取に命じられ、海軍技術を教える。

  • 1859(安政6)年2月24日 永井尚志(44歳)、外国奉行の功績より、軍艦奉行に転進。直後の将軍後継者争いにて一橋慶喜を支持する一橋派に組する。

  • 1859(安政6)年8月27日 永井尚志(44歳)、一橋慶喜支持を理由に、南紀派の大老・井伊直弼によって軍艦奉行を罷免され、失脚。隠居差控の処分を受ける。

  • 1859(安政6)年、長崎海軍伝習所閉鎖。設置期間は短かったが、江戸時代においてオランダを通じて西洋文化を学ぶための窓口となったことで極めて重要な役割を果たした。洋学者の多くは先ずは長崎で蘭学を学ぶことに。

 

  • 1862(文久2)年8月 永井尚志(47歳)、桜田門外の変により、大老・井伊直弼が暗殺される。復職。京都町奉行に。

  • 1864(文久4/元治元)年2月9日 永井尚志(49歳)、大目付に昇進。

  • 永井尚志、姉小路公知暗殺事件、八月十八日の政変、禁門の変に関わる。幕府側使者として朝廷と交渉するなど、交渉能力で手腕を発揮。

  • 永井尚志、第1次長州征討にて征長総督・徳川慶勝に随行。広島にて、長州藩庁との応接に当たる。

  • 1865(元治2/慶応元)年5月 永井尚志(50歳)、長州処分方針について老中と意見が合わず。辞職。

  • 1865(元治2/慶応元)年10月 永井尚志(50歳)、復職、上洛。広島にて、長州藩使節を訊問。幕府に報じる。

  • 1867(慶応3)年2月 永井尚志(52歳)、大名が補任される慣行の若年寄に。旗本からの抜擢は他に例をみない。徳川慶喜の側近にあり、土佐藩の運動に注目。大政奉還を実現に導き、諸侯会議、公議政体の創出を図る。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1867(慶応3)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 永井尚志、大政復古の大号令の後、樹立された新政府と妥協交渉に当たるも失敗。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月 永井尚志(53歳)、鳥羽・伏見の戦、敗北した徳川軍を収拾。江戸に帰る。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月17日 勝海舟(46歳)、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いにて幕府軍敗北。官軍の東征が始まると、老中・板倉勝静により、海軍奉行並に起用される。次いで、陸軍総裁に昇進。陸軍取扱に異動、恭順姿勢を取る徳川慶喜の意向に沿い、徹底抗戦を主張するフランスとの関係を清算。会計総裁・大久保一翁らと朝廷交渉に向かう。官軍が駿府城まで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張。

  • 1868(慶応4/明治元)年2月 永井尚志(53歳)、恭順謝罪を決意した徳川慶喜により免職・登城禁止に処せられる。

1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し

官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。

  • ​​1868(慶応4/明治元)年8月 永井尚志(53歳)、榎本武揚の艦隊と共に、北海道箱館へ。蝦夷地方政権の箱館奉行に推される。

  • 1869(明治2)年5月 永井尚志(54歳)、箱館戦争(五稜郭の戦い)、五稜郭落城。降伏。東京に送られ、拘留。

  • 1872(明治5)年1月 永井尚志(57歳)、赦免。明治政府に出仕。開拓使用掛、左院少議官に。

  • 勝海舟、明治維新直後から30余年にわたり、旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活の保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を続ける。商人・大黒屋六兵衛から供出させた資金を元手に、中村正直津田仙永井尚志ら旧幕臣へ資金援助。徳川一族から積立金を集めて保晃会設立、日光東照宮保存を図る。徳川家墓地管理と旧幕臣援助を定めた酬恩義会を設立するなど。

  • 1875(明治8)年7月 永井尚志(60歳)、元老院権大書記官に。

  • 1876(明治9)年12月7日 永井尚志(61歳)、辞職、位記返上。墨東向島に隠棲。

  • 1891(明治24)年 永井尚志(76歳)、死去。享年76歳。従五位に叙せられる。後に正五位に叙せられる。

bottom of page