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ダイガクコトハジメ - 正木退蔵

正木退蔵

出身校

  • 松下村塾

  • 三兵学科塾

  • 三田尻海軍学校

  • ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン化学教室

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正木退蔵

まさきたいぞう

1846(弘化3)年12月12日(旧暦・10月24日) - 1896(明治29)年4月5日

東京開成学校講師、東京職工学校初代校長、外交官、ハワイ王国領事

正木退蔵」に関する書籍 [外部]

  • 1846(弘化3)年12月12日(旧暦・10月24日) 正木退蔵(1歳)、長門国萩城外土原村渡り口筋に萩藩大組士・正木治右衛門の三男として生まれる。

  • 正木退蔵、佐伯丹下の養子となるも、後に正木姓に復す。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

  • 正木退蔵、毛利元徳小姓として長州正義派に与す。

  • 正木退蔵、大村益次郎の三兵学科塾で蘭学・兵学を学ぶ。三田尻海軍学校で英学を学ぶ。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1870(明治3)年 正木退蔵(25歳)、井上馨に従い、東京に上る。

  • 1871(明治4)年 正木退蔵(26歳)、大蔵卿となった井上馨により、造幣技術習得を目的に木戸正二郎と共にイギリスに派遣される。ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン化学教室に入り、教官チャールズ・グラハム宅に下宿。アレキサンダー・ウィリアムソンに化学を学ぶ。またロバート・ウィリアム・アトキンソンとも知り合う。

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1874(明治7)年 正木退蔵(29歳)、帰国。開成学校教授補に。教授として招聘されたアトキンソンを補佐、化学を講義。

  • 1874(明治7)年5月、開成学校東京開成学校に改称。法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の本科に再編される。加えて、修業年限3年の予科が設けられる。

  • 1874(明治7)年、東京開成学校教師兼顧問として日本の工業教育に多大な貢献をしていたワグネル、文部卿に低度工業教育実現の急務を建議。「およそ一国の富を増進するには、主として工業の発達を図るべく、工業の発達を図るにはまず低度の工業教育を盛んにして工業上最も必要な職工長その他の技術者を養成しなければならぬ」。これが受け入れられ、東京開成学校内に工業関係の実務者を簡易速成することを目的とする製作学教場設立。後の東京職工学校(現・東京工業大学)の前身に。

  • 1875(明治8)年10月 正木退蔵(30歳)、病気悪化。生死を彷徨うも、テオドール・ホフマンの尽力で快復。

  • 1876(明治9)年6月 正木退蔵(31歳)、東京開成学校のイギリス留学生監督として、穂積陳重・岡村輝彦・向坂兌・桜井錠二・杉浦重剛・関谷清景・増田礼作・谷口直貞・山口半六・沖野忠雄の10名を引率、アメリカ経由で再びロンドンに渡る。文部省に留学生の就学状況報告。

  • 1878(明治11)年夏 正木退蔵(33歳)、渡英中、お雇い外国人を周旋。エディンバラ大学フリーミング・ジェンキン宅で物理学者ジェームズ・アルフレッド・ユーイングを紹介され、東京大学に招聘。

  • 1881(明治14)年9月27日 正木退蔵(36歳)、九鬼隆一により日本に呼び戻される。創立間もない東京職工学校の初代校長に。学則改正・煉瓦校舎建設・学生募集に当たった後、化学工芸科実験工場設立。ドイツ人化学者ゴットフリード・ワグネルを招聘。

  • 東京職工学校、浅草蔵前の浅草文庫の建物にて、新校舎建設と開学準備が行われる。「煙突のある所蔵前人あり」といわれるほど豊富な人材を排出、関東大震災で校舎消失するまで、蔵前は工業技術教育発展のめざましい活動の舞台となる。

  • 東京職工学校、開校当初、前近代の伝統的な徒弟制度の下での技術伝承より、近代的・科学的な技術教育への転換を背景とするさまざな困難に直面。生徒がなかなか集まらず、入学者の中からも退学が続出するなど不振の時期が続く。不振を理由に、農商務省への移管論・不要論・廃止論が絶えず。

  • 1884(明治17)年11月、東京職工学校、ワグネルが唯一の外国人教官に就任。陶器玻璃工科主任になると、陶器・ガラス・漆器など、明治以前からの日本の伝統工芸を近代産業へと発展させていくための教育が行われる。

  • 1890(明治23)年 手島精一(41歳)、病気がちであった正木退蔵に代わり、東京職工学校第2代校長に。生徒たちに評判の悪かった校名を、東京工業学校に改称。学校規則改正、地方入試制度や尋常中学校卒業生のうち工業関係科目で優秀な者の無試験入学制度を設けるなど、高等教育機関としての格付けに尽力。学校運営は安定期に入り、入学者数増加。職工長・工師・教員・企業家養成を中心とする工業教育の指導的機関へと発展。

  • 1890(明治23)年4月16日 正木退蔵(45歳)、ハワイ王国領事に就任。ホノルルにて、日本人移民の賃金調停や本国送金の事務に当たる。

  • 1891(明治24)年 正木退蔵(46歳)、横浜正金銀行ホノルル支店開設。これまでサンフランシスコ支店経由だった事務を簡略化。

  • 1893(明治26)年1月 正木退蔵(48歳)、ホノルル駐在を解かれる。

  • 1893(明治26)年3月 正木退蔵(48歳)、公職から離れる。

  • 1896(明治29)年4月5日 正木退蔵(51歳)、死去。享年51歳。

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